1.はじめに
人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、従業員の能力や経験・意欲などの価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる経営の在り方です。とりわけ中堅法人では、従業員一人ひとりの健康状態が労働生産性や人材活用の有益性を大きく左右するため、適切な健康施策の展開は非常に重要なポイントになります。
その中でも、近年、「プレコンセプションケア」に関する施策が注目されています。プレコンセプションケアは、2022年3月改定の「成育医療等基本方針」ⅰに明記され、「経済財政運営と改革の基本方針2024」ⅱに5か年戦略の策定のうえ着実に推進される方針が示されました。そして、2025年5月には子ども家庭庁から「プレコンセプションケア推進5か年計画」ⅲが公表され、企業の取り組み方針が示されたところです。
本稿では、人的資本経営の新常識であるプレコンセプションケアについての概念及び企業の取り組み方針や、具体的な取り組み内容についてご紹介致します。
2.プレコンセプションケアとは
プレコンセプションケアとは、2006年にCDCが、2012年にWHOが提唱した概念であり、日本では2022年3月改定の成育医療等基本方針に明記されました。この概念は、「性別を問わず、適切な時期に、性や健康に関する正し知識を持ち、妊娠・出産を含めたライフデザイン(将来設計)や将来の健康を考えて健康管理を行う」と定義されています。(図表1)
また、2025年5月の「プレコンセプションケア推進5か年計画」では、①概念の普及、②相談支援体制の充実、③専門的な相談支援体制の強化の3つの基本的な方針が示されました。特に、企業に対する今後5か年の集中的な取り組みとして、社員への情報提供や研修等の実施、福利厚生制度や専門職による個別相談体制の整備などが求められることになりました。
さらに、2025年から健康経営度調査にプレコンセプションケアに関する項目が設定されたことに伴い、大規模法人に対してはプレコンセプションケアに関する取組実施率を現行の約30%から80%まで引き上げる方針が示されました。もちろん、中堅法人が無関係である合理的根拠はなく、むしろ、従業員の不妊治療や更年期障害などによる離職・キャリア中断等の人的資本喪失の影響は中堅法人の方が大きいため、戦略的にプレコンセプションケアに関する健康施策を展開する必要があります。
図表1.プレコンセプションケア
出典:子ども家庭庁「プレコンセプションケア推進5か年計画」を基にニッセイ基礎研究所作成
3.各健康課題による経済損失とプレコンセプションケア展開の意義
令和6年2月に公表された経済産業省の試算によると(図表2)ⅳ、女性特有の健康課題とされる4つの疾患(月経随伴症・更年期症状・婦人科がん・不妊治療)における社会全体の経済損失は、約3.4兆円にのぼることが明らかにされました。この推計では、性差に基づく多数の健康課題のうち、規模が大きく経済損失が短期で発生しやすく、職域での対応が期待される4つの疾患について、何らかの症状があるにも関わらず対策をとっていない層の人数に、欠勤/パフォーマンス低下割合/離職等の要素と平均賃金を掛け合わせて試算されました。特に不妊治療に関しては、近年、男性の不妊症が徐々に顕在化しており、就労世代のパフォーマンスやキャリア形成にダイレクトに影響する可能性があります。また、前立線がんは0.06兆円、更年期障害は1.2兆円と、男性特有の健康課題が与える経済損失も無視できないレベルに達しています。
これらの疾患に対して、プレコンセプションケア施策を展開することで、パフォーマンスの低下やキャリア中断を未然に防ぐ効果が期待できます。例えば、女性ホルモンや男性ホルモンの変動による健康影響や適切な対処方法を知識として得ることができれば、月経痛やPMSなどの身体・精神症状などに対し低用量ピルの内服や生活改善などにより症状を軽減し、管理職期に重なりやすい更年期障害に対してもホルモン補充療法等でパフォーマンスの低下をある程度防ぐことが可能となります。また、就労期に発生しやすい疾患や個人の発症リスク等を学ぶことができれば、月経随伴症状や子宮内膜症、精索静脈瘤の早期発見治療につながり、不妊症のリスク低減を未然に図ることができます。ⅴその結果、個人の能力が最大限発揮され、人的資本の価値向上が期待できるだけなく、家族形成の実現性も高まり、ひいては少子化対策という社会課題への貢献活動としての意義も望めます。
図表2.女性特有の健康課題による社会全体の経済損失(試算)
出典:経済産業省「女性特有の健康課題による経済損失の試算と 健康経営の必要性について」より抜粋
4.具体的な展開ポイント・取組例
経済産業省が公表する「女性の健康施策推進の考え方・取組例」ⅵによると、女性特有の健康課題はデリケートで制度利用へのためらいもある点に配慮し、まず経営層からのメッセージ発信や管理職向け研修など、「制度やサポートを利用しやすい体制・雰囲気の醸成」が必要であることが示されています。併せて「具体的なリソース付与支援」を行うことで、各施策が有機的に連携して社内への浸透が進み、女性従業員のパフォーマンス向上等が期待できると示されています。(図表3)
図表3.女性の健康施策推進の考え方
出典:経済産業省「健康経営における女性の健康課題に対する取組事例集」より抜粋
中小企業の取り組み例としては、従業員に対して妊娠・出産の備えや家族協力の必要性に関するセミナーや健康推進MTの実施、トップメッセージの発信などの「理解促進」があげられます。また、経営者と社員を含めた福利厚生制度の見直しや新米ママの相談グループラインの立ち上げなど「企業の組織体制」の整備や、専門職による健康相談室の設置・外部キャリアコンサルタントとの面談機会の確保、健診の費用助成や健康ツールの貸与などの「積極投資」もあります。他にも、フレックスや時短勤務、リモート勤務費用の補助、子どもの同伴出勤制度の整備など「柔軟な働き方の調整」などの事例があげられています。
さらに、妊活や不妊治療による従業員の離職を経験したある企業では、生物学的性差により生じるアンコンシャスバイアスや、ホルモン変動が健康状態に及ぼす影響を産婦人科医や助産師などの外部講師を招いて積極的に情報提供している事例もあります。また、男性従業員の比率が高いある企業では、プレコンセプションケアセミナーに参加した者のうち、希望者には精液検査キットの配付をしている企業もあります。初期投資を抑えたい場合にも、社内のポータルサイトや福利厚生情報誌等を通じて情報発信するなど工夫次第で対応できます。
5.おわりに
現在、企業におけるプレコンセプションケア施策の展開が進みつつありますが、妊娠・出産を含めたライフデザインを行うという観点から、女性にばかり焦点があたりがちです。企業のセミナーの対象者も新卒や女性社員に限定されている事例が多いことや、男性職員の比率が高い企業では必要な施策として認識されていないなど課題が残ります。
プレコンセプションケアは、就労期に発生しやすい疾患や個人のリスク等について考える契機となり、疾患に対する正しい知識の習得や対処行動を学ぶことで、パフォーマンスの低下やキャリア中断を未然に防ぐ効果が期待できます。性別や勤務年数等に関わらず、全ての従業員を対象に、企業の人的資本経営の一環としてプレコンセプションケアが効果的に展開されることが求められています。
(執筆)ニッセイ基礎研究所 乾愛 生活研究部 研究員
生25-6553,法人開拓戦略室
ⅰ 厚生労働省「成育医療等の提供に関する施策の総合的な推進に関する基本的な方針」改定(令和5年3月22日)のポイント(参考資料3-1)
https://www.mhlw.go.jp/content/11908000/001076349.pdf
ⅱ 内閣府「経済財政運営と改革の基本方針2024」
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/honebuto/2024/decision0621.html
ⅲ 子ども家庭庁「プレコンセプションケア推進5か年計画」
https://www.cfa.go.jp/councils/preconception-care
ⅳ 経済産業省「女性特有の健康課題による経済損失の試算と 健康経営の必要性について」
https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/downloadfiles/jyosei_keizaisonshitsu.pdf
ⅴ 疾患や症状に対する治療方針は、必ず主治医の判断のもと指示に従ってください。
ⅵ 経済産業省「健康経営における 女性の健康課題に対する取組事例集」(資料3)
https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/health_management/pdf/002_03_00.pdf


