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「人材への投資」が経営の柱に~金融と人的資本経営をめぐる動向~

経営課題事例

2025-06-17

ニッセイ基礎研究所 福本 勇樹 金融研究部 金融調査室長

目次

最近、ビジネスの場で「人的資本経営」という言葉を目にする機会が増えてきました。人材育成や従業員エンゲージメントなどの人事領域だけでなく、金融・会計・IRといった分野でも取り上げられるようになっています。

特に近年では、人的資本の「見える化」や戦略的な活用が、従業員の採用・定着に加えて、金融機関との対話や資本市場における評価にも関わるようになってきました。本稿では、こうした人的資本経営と金融の接点に着目し、企業にとってどのような対応が求められるのかを整理します。

1.人的資本経営とは何か?──“人はコストではなく資本”

経済産業省によると、「人的資本経営(Human Capital Management)」とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方を指します。従業員一人ひとりのスキルや経験、知識、意欲などを「資本」と捉え、企業価値を高めていこうとする考え方です。

かつては「人的資源(Human Resource)」という言い方が一般的でしたが、「人的資源」には「使うと減るもの」という発想が根底にありました。「人的資本」は「投資すれば将来リターンが見込めるもの」という考え方です。この発想の転換こそが、人的資本経営の出発点です。

2.スキルや知識こそが企業競争力を左右する時代に

近年、無形資産の価値が企業競争力の中核を占めるようになってきました。製造業でもサービス業でも、技術、ノウハウ、営業力、チームの結束力といった「人」に根差した力が、ビジネスの成否を分けています。

WIPO(World Intellectual Property Organization: 世界知的所有権機関)のホームページでは、米国ではすでに、S&P500企業の企業価値のうち9割近くが無形資産であることが紹介されています。日本においても無形資産の活用が求められるようになっており、限られた人材をどう育て、定着させ、活かしていくかが企業価値そのものを左右する時代に移行しつつあります。

3.リスキリングと教育投資が人事施策の中核に

こうした状況の中で、「従業員の専門性を高める」ことがますます重要になっています。特に注目されているのが「リスキリング(学び直し)」です。単なる研修や資格取得支援にとどまらず、時代の変化にあわせて業務内容を変え、職種転換や新規事業に対応できる人材を育成することが重視されています。

内閣府の「人的資本可視化指針」(2022年)でも、「従業員一人当たりの研修投資額」「研修項目別の従業員参加総時間(延べ時間)」といったKPIが例示されており、企業が「どのくらい人材を育成し能力開発を行っているか」が注目されています。

4.人事戦略の重要性が増す背景とは?

人的資本経営が求められる背景には、次のような構造的な変化があります。

  • 少子高齢化による人材確保の難しさ:採用競争が激化しており、定着率や従業員満足度が経営課題になっています。
  • 人材の流動化とキャリアの多様化:年功序列や終身雇用に代わり、スキルや成長環境への期待が重視されています。
  • ESG投資の拡大とサステナビリティ重視:「人的資本への取り組み」が企業価値評価の一部と見なされるようになっています。

こうした動きに対応するためにも、従来型の労務管理から一歩踏み出し、人材を「経営資源」ではなく「経営資本」として捉え直すことが求められているのです。

5.社内外のステークホルダーも人的資本を注視

人的資本に関する取り組みは、単なる社内の人事課題ではなくなっています。採用応募者・従業員はもちろんのこと、以下のようなステークホルダーがその内容を注視するようになってきています。

  • 取引先企業(CSR・コンプライアンス観点から)
  • 地域社会・自治体(雇用創出や研修実績への関心)
  • 金融機関(後述)
  • 投資家(ESG評価や非財務情報として)

採用ページや統合報告書、会社案内に人的資本への取り組みを記載することで、信頼感や競争力を高めることにつながると考えられています。

6.賃金・報酬制度も企業価値と連動する仕組みに進化中

近年、賃金・報酬制度の面でも「人的資本経営」の流れが現れています。たとえば以下のような施策が出てきています。

  • 特定のスキルの取得・維持に応じて昇給・昇進する制度
  • 国家資格や社内資格などの獲得に対する手当の支給
  • 株式報酬制度(譲渡制限付き株式やストックオプションなど)
  • 営業利益などの業績指標にリンクした業績連動型の賞与支給
  • 社内外の研修プログラムの提供
  • 大学・大学院などの学費補助
  • 自己啓発目的の長期休暇(サバティカル休暇)の付与

これらの制度設計により、従業員にとって「企業価値向上に貢献する行動が自らの処遇に反映される」ことが明確になり、組織全体の動機づけにもつながっています。特に管理職層においては、企業価値との「連動」が見える制度設計が求められつつあります。実際に、東京商工リサーチの調査では、「定時昇給」を実施した企業は減少傾向にある一方で、「ベースアップ」を実施する企業は増加傾向にあり、報酬制度が画一的な年功制から、企業価値に連動した仕組みに移行しつつあることが分かります。

7.金融機関の融資判断に影響を与える人的資本の“見える化”

金融機関との関係でも、人的資本への取り組みが新たな判断材料になっています。

金融機関では、担保や保証に依存しない「事業性評価」に基づく融資が拡大しています。その中で、経営者の人材育成方針や従業員の定着率、後継者育成の仕組みといった、人的資本に関する取り組みが、企業の将来性を測る重要な要素として評価されつつあります。

こうした非財務的な情報を整理・共有する手段として、経済産業省・中小企業庁が提供する「ローカルベンチマーク(ロカベン)」があります。これは、企業と金融機関の間で、財務情報だけでなく経営課題や強み・弱みを共有し、対話を深めるための「経営のカルテ」のようなものです。

ロカベンでは、「経営者」「事業・組織」「関係者」「内部管理体制」の4つの視点において、「後継者の育成状況」「従業員の定着率」「人材育成の取り組み状況」などが設定されており、人的資本への目配りが対話における確認項目になっています。

このように、金融機関は人的資本の育成状況や組織体制を、事業継続力や将来の成長性の裏付けと見なす傾向が強まっており、企業としては、人的資本の取り組みが資金調達力に影響を及ぼす可能性のある要素として捉えておくことが重要です。

8.投資家との対話における「非財務情報」としての重要性

上場企業を中心に、投資家が注目するテーマも「財務情報」から「非財務情報」へと広がっています。特にESG投資の文脈では、人的資本は「S(社会)」の中心的な要素とされ、企業の持続可能性やレジリエンスの判断材料になっています。

人的資本に関する開示が十分である企業は、投資家からの信頼を得やすく、結果的に資本コストの引き下げや長期的な資金調達力の強化にもつながる可能性があります。人的資本への取り組みが企業のリスク低減要因と評価されれば、リスクプレミアムが下がり、資本コストの引き下げにつながる可能性があるためです。

特に近年は、統合報告書や人的資本開示において、人材投資のROI(投資対効果)や離職率、エンゲージメント指数といったKPIが、企業の人的資本への姿勢を測るひとつの手がかりとして注目され、機関投資家との対話でも徐々に取り上げられる機会が増えています。

9.まとめ──人的資本の可視化が、新たな経営の標準に

人的資本経営とは、「人にどれだけ投資し、その成果をどう評価・活用しているか」を可視化し、企業の成長戦略と結びつけていく取り組みです。

企業規模に関わらず、人への投資が、単なる人事政策ではなく、企業の信用力そのものを左右する時代です。「どう投資し、どう育てるか」が、これからの企業の競争力と信頼性を決定付けるものといえるでしょう。

金融との関係という視点から見れば、「人への投資」をどのように“資本”として伝えるかが、これからの経営者の対外発信力としても今後ますます重要になっていくでしょう。

【参考資料】

○経済産業省「人的資本経営~人材の価値を最大限に引き出す~」
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/index.html

○内閣府(非財務情報可視化研究会)「人的資本可視化指針」
https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/meeting/wg/2210_04local/230428/local06_ref02.pdf

○経済産業省「ローカルベンチマーク(ロカベン)シート」
https://www.meti.go.jp/policy/economy/keiei_innovation/sangyokinyu/locaben/sheet.html

○東京商工リサーチ「2024年度の『賃上げ』率 最多は『5%以上6%未満』 実施率は84.2%、中小企業は『賃上げ疲れ』も」
https://www.tsr-net.co.jp/data/detail/1198855_1527.html

○WIPO “Intangible Assets and Intellectual Property”
https://www.wipo.int/en/web/intangible-assets

(執筆)ニッセイ基礎研究所 金融研究部 金融調査室長 福本 勇樹

生25-2872,法人開拓戦略室

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