1.注目が高まるビジネスにおける人権リスク
ビジネスを取り巻く環境の変化により企業は新たな人権課題に直面している。米国ではトランプ前政権時代から中国の新疆ウイグル自治区での人権侵害を問題視し、関連する企業や個人への制裁や輸出管理などを行ってきた。こうした流れは人権を重視するバイデン政権において、より強まっている。2022年6月には「ウイグル強制労働防止法(Uyghur Forced Labor Prevention Act:UFLPA)」が施行され、新疆ウイグル自治区が関与する製品の輸入が原則として禁止となった。
また、日本でも2022年9月に「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」が策定され、企業は「人権デューデリジェンスの実施」などサプライチェーン等における人権尊重の取組みを求められることとなった。
このように、現在では人権に関する意識の高まりを背景に企業はビジネスにおける人権リスクへの対応を求められる状況となっている。さらに、ビジネスにおける人権配慮は単に注目が高まっているだけでなく、テクノロジーやAIの進展による新たな課題も発生している。
AIは社会の様々な場面に浸透しつつあるが、国際社会では、AIによる判断には人種や性別などについて差別的なバイアスがかかっていると人権擁護団体などから指摘されている。
2018年10月のロイター通信の報道によれば、米アマゾン・ドット・コムは2014年から進めてきたAIを活用した人材採用システムの運用を取りやめた。アマゾン・ドット・コムはこれについて、AIによる判断に女性を差別するバイアスがかかっていたためとしている。これは、過去に同社の技術職に応募したのはほとんどが男性だったことにより、システムは男性を採用するのが好ましいと学習したことが原因だとしている。企業でのAIを活用するには、こうした差別的なバイアスを含まない適切な運用を行うことが一つの課題となっている。
AIに関する課題とともにインターネットやソーシャルネットワークサービス(Social Networking Service: SNS)の適切な活用もテクノロジーの進展に伴う課題として浮上している。法務省の調査によれば、インターネット上の人権侵害情報に関する人権侵犯事件の件数は2012年の673件から、2021年には1588件まで大幅に増加している(図表1)。SNSのコミュニケーションは不特定多数が閲覧し、また不特定多数からの意見を受ける点で、従来の対面によるコミュニケーションとは異なる特徴を持っている。企業がSNSを用いて広告を含めた情報発信を行うことも行われるようになってきているが、様々な立場の人々が閲覧することを前提とした内容を発信する必要がある。
また、別の人権のテーマとなるが、日本では「外国人技能実習生への待遇」が課題となっている。法務省のデータによれば、外国人技能実習生の数は過去10年間で大幅に増加している(図表2)。外国人技能実習生受け入れの本来の目的は技術の伝達だが、実態としては国内の人手不足を補うために過酷な作業を安価な賃金で行う労働力として利用しているケースもあると言われている。
外国人技能実習生の待遇については国連による勧告が行われており、外国人技能実習生制度は国際社会から問題視されている状況にある。賃金の不払いや長時間労働が行われており「強制労働」にあたると指摘されている。また、受け入れ企業による外国人技能実習生のパスポートの取り上げ(表面的に預かりと称する場合も含む)が行われている場合もあるが、この場合、外国人技能実習生の移動を実質的に妨害することになり、「移動の自由を奪うことによる強制労働」にあたるとされている。企業側があまり良く考えずに対応し、外国人技能実習生に対する強制労働による人権侵害とされてしまうリスクがあることを改めて認識することが重要となっている。
こうした中、2023年4月には政府の有識者会議では、技能実習制度を廃止し、新たな制度への移行を求める中間報告のたたき台が示された。報告には、実習生が働く企業の変更も一定程度認めるよう規制を緩和することや一定水準以上の日本語能力の確保への取組みを充実させることなどが盛り込まれている。技能実習制度の目的と実態の乖離を踏まえ、新たな制度への移行が進められている。
このように、人権意識の高まりや国際情勢、テクノロジーの進展などビジネスを取り巻く環境が大きく変化する中では、従来通りの人権に関する対応では不十分であり、企業が持続的に事業を行うにはビジネスにおける人権配慮を改めて見直すことが必要となっている。
2.人権リスクは企業経営への大きな影響に
ここまでで、ビジネスと人権に関する近年の動向について述べてきたが、実際に事業収益への大きな影響として顕在化した事例も過去存在している。
1997年、米国のアパレル企業が製品の製造を委託するインドネシアやベトナムなどの工場で児童労働や劣悪な環境での労働が行われていることが発覚した。同社は、こうした発展途上国の児童を利用することで収益をあげていたことについて、社会的責任を問われることとなり、世界的な不買運動に受ける事態につながった。デロイトトーマツはこの影響について不買運動が発生していなかった場合の売上予測と実際の売上高から約12,180百万ドル(約1兆3,764億円)の売上がこの人権侵害によって失われたと試算している。
また、2012年には日系自動車会社のインド子会社の工場で、大規模な暴動が発生し、生産が停止する事態となった。また、インド人人事部長が死亡し、日本人幹部を含む約100人の従業員も負傷した。同工場では2011年頃より労使紛争が頻発していたという。
このように、人権リスクの顕在化はイメージダウンによる売上高の減少や事業の中断などによって企業の収益に大きな影響を与えるものである。また、大規模な海外事例だけでなく従業員への不適切な処遇などによる訴訟は日本国内でも多く発生しており、人権リスクは身近なリスクでもある。厚生労働省が公表する民事上の個別労働紛争相談件数の推移(相談内容別)によれば、過去10年間の間で解雇に関する相談件数が減少傾向にある一方で、いじめ・嫌がらせに関する相談件数が増加し続けていることが示されている(図表3)。
3.求められる企業の対応
このように世界的に人権リスクへの注目が高まるなか、現状においては日本企業の対応は必ずしも十分とは言えない状況にある。
2020年、日本政府は、企業活動における人権尊重を促進するために、「『ビジネスと人権』に関する行動計画」を策定した。経済産業省と財務省がそのフォローアップの一環として行った「日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する取組状況のアンケート調査」によれば、責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドラインが求めている人権デューデリジェンスを実施している企業は全体の52%にとどまっている(2021年8月末時点)。
また、人権デューデリジェンスを実施している企業でも、間接仕入先まで調査している企業は25%、販売先・顧客まで調査している企業は10~16%にとどまっており、取引先を含めたサプライチェーン上の人権デューデリジェンスは必ずしも十分とは言えない状況となっている。
人権デューデリジェンスを実施していない理由としては32%が「実施方法が分からない」、28%が「十分な人員・予算を確保できない」と回答しており、日本の企業による人権デューデリジェンスの実施には多くの課題がある状況が示されている。また、同調査では売上規模1兆円以上の企業では9割弱が人権デューデリジェンスを実施しているのに対し、100億円未満では3割弱にとどまっており、中小企業では人権デューデリジェンスが十分に実施されていない状況が示されている。
しかし、従業員を含む関係者への配慮を行うことは、単に人権リスクの予防というだけでなく、「従業員エンゲージメントの向上」や「円滑な人材採用」による業績の向上にもつながり得る。
経済産業省は「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書(人材版伊藤レポート)」の中で、従業員エンゲージメントスコアと営業利益率、労働生産性は正の相関関係があるとする調査結果を公表するとともに、「経営戦略の実現、新たなビジネスモデルへの対応に必要な人材が自身の能力・スキルを発揮してもらうためにも、従業員がやりがいや働きがいを感じ、主体的に業務に取り組むことができる環境を創りあげることが必要」と指摘している。
また、現在では、若年人口の減少などにより優秀な人材の獲得はより困難となっており、優秀な人材の採用につながる企業のレピュテーションは重要性を増している。企業の経営は、テクノロジーの急速な進歩への対応、多様化する顧客ニーズの取り込み、従業員の安全の確保といった様々な経営上の課題に直面するとともに、女性や高齢者、障害者、外国人といった多様な人材の活躍が進み、個人のキャリア観や価値観も多様化している。
今日では、様々な背景を持つ人々が働きやすい環境を整えることは、多くの企業にとって、経営戦略を推進し、生産性や収益性を向上させ、持続可能な事業を行っていく上で欠かせない重要課題となっている。ビジネスと人権を巡る動向に引き続き注目したい。
以上
(執筆 原田 哲志(はらだ さとし) 金融研究部 准主任研究員・ESG推進室兼任)
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2023-1110G