1 はじめに
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、欧米や日本では、冬場のピーク(第3波)から一時は激減したものの、足下ではリバウンドの兆しが見られ変異ウイルスの広がりもあり、感染の第4波への懸念が高まっており、終息への出口は未だ見えない。一刻も早く治療法が確立され、昨年12月から欧米で始まったワクチン接種が世界に広く行き渡って、できるだけ早い終息を願うばかりだが、ウィズコロナ期にある今、経営者は、アフターコロナ(新型コロナ終息後)の時代を見据えて、従業員の働き方(ワークスタイル)と働く場(ワークプレイス)の在り方をどう考えるべきだろうか。
筆者は従来から、「メインオフィス(本社など本拠となるオフィス)」と「働く環境の多様な選択の自由」の重要性を主張してきたが、コロナ禍を経てもその重要性は全く変わらない、と考えている。この「2つの重要性」は、アフターコロナを見据えた企業経営のニューノーマル(新常態)においても、変えてはいけない「原理原則」であり続ける、と考えたい。
これまで我が国の産業界で、その必要性が叫ばれながら必ずしも普及してこなかった在宅勤務でのテレワークが、コロナ禍の中で緊急避難的に大規模導入されたことを契機に、従業員の働く環境にあまり関心を払ってこなかった経営者にとってさえ、「在宅勤務」「働き方」「オフィス・ワークプレイス」が重要な経営課題のキーワードとして一挙に浮上したのではないだろうか。
そこで本稿と次稿の2編にわたり、コロナ後を見据えた働き方とオフィス戦略の在り方について、事例を交えて詳細に考察することとしたい。まず、前編の本稿では、コロナ禍での在宅勤務の位置付け・課題、コロナ後の人間社会のニューノーマルに関する基本的な考え方、コロナ後の働き方とワークプレイスの原理原則(2つの重要性)、「組織スラック(organizational slack:経営資源の余裕部分)」を備えた経営の重要性、について考察したい。
2 緊急事態宣言下で大規模に導入された在宅勤務
1|コロナ禍での在宅勤務はBCP対策
我が国では、新型コロナウイルス感染症に関する1回目の緊急事態宣言が、全国を対象として2020年4月~5月に発出され、その下で産業界では、大企業を中心に在宅勤務でのテレワークが大規模に導入された。これは、政府・自治体からの外出自粛要請に対応して緊急避難的に発動された企業のBCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)対策であり、従業員に選択の余地はほぼなく、経営側からの指示の下で全社員ほぼ一律に定時での在宅勤務が実施されたものだ1。
BCP2とは、大規模な自然災害や事故、感染症のまん延など想定外の緊急事態においても、重要業務を継続または迅速に復旧させるための方針、体制、手順などを示した計画を指す。従って、今回コロナ禍で大規模に導入された在宅勤務は、従業員が時間・場所にとらわれない多様で柔軟な働き方を個々の事情に応じて自らで選択できるようにする「働き方改革」とは、全く次元が異なるものである。
1回目の緊急事態宣言解除後も、感染拡大の第2波・第3波が起こり、今年1月~3月には2回目の緊急事態宣言(対象は都市圏を中心とした11都府県に限定)が発出された。治療法が確立してワクチンが広く行き渡ることにより、新型コロナが終息するまでのウィズコロナ期では、常に感染拡大・再流行(リバウンド)を警戒せざるを得ない状況が続くとみられ、感染防止のために在宅勤務を中心とした働き方を維持する企業も多くある。これらの企業の対応も、平時(日常)とは言い難いウィズコロナ期におけるBCPの発動期間の延長と捉えることもできるだろう。
企業は、コロナ禍で発動した在宅勤務などBCP対策についてまず真っ先に行うべきことは、経営層や従業員の記憶が明確なうちに、新型コロナ対応における意思決定や行動のプロセスを迅速に総括し振り返り、BCPに関わる方針・体制・手順などの問題点・課題を抽出し、それを反映してBCPの改善・見直しを図り次回のBCP発動に備えることであり、これがBCPの定石である。これまで一部の企業を除いて在宅勤務が必ずしも普及・定着してこなかった日本企業では、今後も今回のようなパンデミック(感染症の世界的流行)や災害時のBCPとして在宅勤務を導入・実施する際に、従業員がいつでもスムーズにストレスなく在宅勤務に移行できるように、日頃からの準備・訓練の実施も欠かせない。また、パンデミックの深刻度に応じた出社や外部顧客との対面面談の可否も、先進的なグローバル企業のように、予めきっちりとルールとして決めておくことが求められる。
1 大半の社員とは逆に、経営企画、財務・経理、総務・人事、不動産管理、ITなどの主要なバックオフィス部門、製造拠点、顧客先常駐者などは、自社や顧客の会社機能維持などのためにローテーション制を含め出社を余儀なくされたとみられる。これらの企業活動を維持するための「エッセンシャルサービス」を担当するワーカーについては、感染リスクが高いと考えられる環境下で会社の指示で出社しなければならないため、会社側はできるだけ感染リスクを回避させるために、例えばタクシーでの通勤を認めタクシー代の実費請求ができるようにすることが望ましい。
2 BCPの概説については、拙稿「Series企業経営者に向けたCRE戦略概論/第9回BCPとCRE戦略(1)」三菱地所リアルエステートサービスHP『スペシャリストの智』2017年7月、同「Series企業経営者に向けたCRE戦略概論/第10回BCPとCRE戦略(2)」三菱地所リアルエステートサービスHP『スペシャリストの智』2017年10月を参照されたい。
2|在宅勤務での生産性格差を是正するサポートが必要
従業員は、緊急事態宣言下のように長期間の在宅勤務を半強制的に強いられると、担当業務がテレワークに適しているか否かに関わらず、インフォーマルなやり取りを含む対面でのコミュニケーションの不足による不安感・孤独感など精神的ストレスが高まってしまうだろう。
さらに在宅勤務の生産性は、自宅での環境要因によって従業員間で大きな格差が生じかねないことにも注意を要する。例えば、自宅にオフィス家具がないと腰痛・肩凝りなど肉体的疲労が大きくなること、またプリンターがないと長文の資料をPC画面上で読むのに苦痛を感じたり、印刷するために出社せざるを得ないことから、生産性が低下してしまうだろう。自宅に仕事部屋など独立した空間がなく、家族が近くにいて業務に集中できない場合もあるだろう。また、在宅勤務に共通することではあるが、オフィスなら口頭で報告したり簡単な打合せをしたりすれば済む用件も、在宅勤務では基本的にEメールで伝えなければならないため、メール作成のための時間がかかりがちとなり、業務が中断されてしまうことも多いのではないだろうか。
自宅のPCからインターネットを通じて会社のPCの遠隔操作をできるようにするリモートアクセスツールやWeb会議システムなどテレワーク向けIT技術の進化には目を見張るものがあるものの、IT・通信環境やオフィス家具など充実したインフラが完備され、また従業員間で対面のコミュニケーションが簡単に取れる、メインオフィスにおいて業務を行うのが、やはり生産性が最も高いのではないだろうか。企業にESG(環境・社会・ガバナンス)への配慮を求める動きが世界的に拡大する中、経営者は従業員の心身の健康への配慮を中核的な経営課題の1つに据えるべきだが、在宅勤務で健康を害する従業員が増えて生産性が低下するなら本末転倒だ。
企業が在宅勤務での生産性格差を是正するためには、自宅の環境要因で生産性が上がらない従業員が、作業机・椅子などのオフィス家具やプリンター・大型液晶モニター・Wi-Fi3ルーターなどのIT関連機器を購入したり、ワークスペース設置のためのリノベーションを行うなど自宅の作業環境を整えるための金銭的サポート4を行うことが欠かせない。さらに、従業員が自宅に近いサテライトオフィスでテレワークができるようにすることは、設備・コスト面から非常に有力な選択肢だろう。サテライトオフィスの活用は、環境を変えることで長期間の在宅勤務での孤独感を軽減し、従業員の在宅でのストレスを和らげる効果も期待できよう。
足下で法人向け会員制の郊外型サテライトオフィスの整備が進んでおり、立地の多様化やリーズナブルな利用料金の設定に伴い企業にとって活用の余地が高まっている。また、最近はビジネスホテルでも宿泊客が大幅に減少する下で、テレワーク需要を新規開拓するために割安なテレワークプランを売り出す施設が散見され、在宅勤務を補完する選択肢の1つとなろう。さらに、前述の2つの選択肢よりコストはかかるものの、最新のBCP機能とオフィスワーカーが健康で働きやすいと感じる空間を取り込んだ郊外立地の中規模オフィスビルについて、企業がその一部をテレワーク向けに賃借することや、自社所有のサテライトオフィスとして展開することも一法だろう。ウィズコロナ期では、テレワークの場の選択肢をホームワーク一辺倒ではなく、従業員の居住地近隣のサテライトオフィスへも拡大すべきだ。
3 Wi-FiはWi-Fi Allianceの商標または登録商標
4 支給額に在宅勤務時間中の光熱費・通信費を加味することも考えられる。また、ノートPCやWi-Fiルーターなどテレワークに必須のIT機器については、会社側が購入して従業員に貸与することも一法だろう。
3 コロナ禍で制限されていた人間社会の本来の在り方に立ち返れ!
1|リアルな場での創造的活動を取り戻すことこそがニューノーマルの在り方
ウィズコロナを経て平時を取り戻せるアフターコロナ(新型コロナ終息後)において、経営者は従業員の働き方とワークプレイスのポートフォリオをどう構えるべきか。緊急事態宣言下やウィズコロナ期のような感染リスクを強く警戒しなければいけない時期に実施する、同質的な在宅勤務一辺倒ではなく、取り戻した日常に最適な働き方やワークプレイスの在り方を冷静に再考するべきであり、ウィズコロナ期にある今からアフターコロナ時代を見据えることが求められる。アフターコロナでは、人々の生活や働き方が大きく変わるニューノーマル(新常態)が訪れると言われているが、オフィス戦略を含めた企業経営には、環境変化に対応して柔軟かつ迅速に変えるべきものがある一方で、こだわり続けて変えてはいけない「原理原則」もあることに留意しなければならない5。
人間は本来リアルな場に集い直接のコミュニケーションを交わしながら信頼関係を醸成し、協働して画期的なアイデアやイノベーションを生むことで社会を豊かにしてきた。このような人間社会の在り方をモチーフにしたものが、まさにオフィスの在るべき姿だ。
具体的には、従業員の創造性を企業競争力の源泉と認識し、それを最大限に引き出し、イノベーション創出につなげていくための創造的なオフィス、すなわち「クリエイティブオフィス」の在り方は、オフィス全体を街や都市など一種の「コミュニティ」や「エコシステム」6と捉える設計コンセプトに基づくことを「大原則」とし、この大原則の下で、休憩・共用スペースの効果的な設置や執務フロアのレイアウトの工夫などにより、従業員間のつながり・信頼感や交流・人的ネットワーク、すなわち「企業内ソーシャル・キャピタル7を育む視点」や、多様でバランスの取れた働く場の選択肢を従業員に提供する「多様性を尊重する視点」、従業員の安全確保やBCP遂行に資するオフィスを構築する「安全性に配慮する視点」などを具体原則として取り入れることだ。このクリエイティブオフィスの在り方・原理原則は、筆者が先進事例の共通点から抽出したものであり、「クリエイティブオフィスの基本モデル」8と呼んでいる(図表1)。「企業が事業継続のために使う不動産を重要な経営資源の一つに位置付け、その活用、管理、取引(取得、売却、賃貸借)に際し、CSR(企業の社会的責任)を踏まえた上で、企業価値最大化の視点から最適な選択を行う経営戦略」を「CRE(企業不動産:Corporate Real Estate)戦略」と呼ぶが、クリエイティブオフィスの構築・運用も、このCRE 戦略の下で組織的に取り組まなければならない9。
ところが新型コロナにより、人間はフィジカル空間(実世界・現実空間)での活動が大きく制限され、在宅勤務によるテレワークやオンライン会議、遠隔授業、ネットショッピングなどサイバー空間(仮想空間)に追いやられた。このような状況は、決して新たな日常ではないだろう。インターネットやAI(人工知能)などサイバーでのテクノロジーは、実世界を豊かにするために今後もしっかりと利活用することが欠かせないが、コロナ禍で制限されていた実世界での創造的な活動を取り戻すことこそが、ニューノーマルの在り方ではないだろうか10。人間は文明社会の本来の在り方である、リアルな場で共鳴・協働することを放棄すべきではない。
5 アフターコロナの企業経営の在り方における原理原則については、拙稿「コロナ後を見据えた企業経営の在り方」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2020年8月28日、同「特別レポート:コロナ後を見据えた企業経営の在り方」日本生命保険相互会社(協力:ニッセイ基礎研究所)『ニッセイ景況アンケート調査結果-2020年度調査』2020年12月8日を参照されたい。
6 エコシステムとは、元々は生態系での生物と環境要因の相互作用を示す言葉だが、オフィスでのエコシステムでは、オフィス環境が従業員のモチベーションやワークスタイル、従業員間のコミュニケーションやコラボレーションに影響を与えることが重要である。
7 ソーシャル・キャピタルとは、コミュニティや組織の構成員間の信頼感や人的ネットワークを指し、コミュニティ・組織を円滑に機能させる「見えざる資本」であると言われる。「社会関係資本」と訳されることが多い。企業内ソーシャル・キャピタルは、社内のコミュニケーションやコラボレーションの活性化を通じて、イノベーション創出につながり得ると考えられる。
8 クリエイティブオフィスの基本モデルについては、拙稿「健康に配慮するオフィス戦略」ニッセイ基礎研究所『基礎研レター』2020年3月31日、同「クリエイティブオフィスのすすめ」ニッセイ基礎研究所『ニッセイ基礎研所報』Vol.62(2018年6月)、同「第7章・第1節 イノベーション促進のためのオフィス戦略」『研究開発体制の再編とイノベーションを生む研究所の作り方』(技術情報協会,2017年10月)、同「クリエイティブオフィスの時代へ」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2016年3月8日、同「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011年8月号を参照されたい。
9 先進的なグローバル企業のCRE 戦略には、(1)創造的なワークプレイスの重視に加え、(2)CRE マネジメントの一元化(専門部署設置による意思決定の一元化とIT 活用による不動産情報の一元管理)、(3)外部ベンダーの戦略的活用、という3つの共通点が見られ、筆者は、これらをCRE 戦略を実践するための「三種の神器」と呼んでいる。
10 筆者は、このような考え方を拙稿「<新時代の住宅・不動産Vol.3:オフィス戦略>今、企業に求められるサテライトオフィス活用~新型コロナウイルスがもたらすワークプレイス変革」日本経済新聞朝刊2020年6月30日にて提示した。
2|山極京大前総長とメルケル独首相の考え方に学ぶ
(1)山極京大前総長の考え方
ゴリラ研究の第一人者でゴリラの社会生態学的研究や人類の進化に関する研究などを行う、山極壽一京都大学前総長11は、「人間は生物なので、集まってさまざまな違いを前提にしながら接触して協働する。そのことによって、生きる喜びや生きる意味を見つけ出していく。これが、そもそもの人間の社会のあり方。(※コロナ禍で)それが全部奪われてしまった。猿や類人猿、人間に近い生き物ができないことを人間はやってきた。例えば、音楽で多くの人たちが一堂に会し心を一つにすることができる。言葉以前に人間はそういう共鳴社会をつくり上げた。だからこそ人間は一つの集団を出てほかの集団にやすやすと入っていき、見知らぬ人たちともすぐに手を組める共感を感じることができる。そういうしかけを人間は言葉以前からいろいろつくってきた。そういうものがいま禁止され、奪われてしまう事態になりつつある。だからそれをどうやったら復活できるかということを考えないといけない。そのためのアイデアが今必要な時代だと思う」「信頼関係をつくるためには、効率性を重んじないゆっくりとした時間の流れに身を任せながら他者とじっくりつき合うことが必要で、そういうことを経験しなければ、信頼関係は醸成されない」12と述べている。
また、同氏は、「今回の外出自粛によって明らかになったのは、集まったり、移動したりすることを禁じられると、こんなにも人間は落ち込んでしまうものなのかということでした。スマホもインターネットもあるわけだから常に会話はできている。だけど、それだけでは人間は満足できず、孤立感を感じてしまう」「人間は食べる時にわざわざ集まって、お互いの顔色を確かめながらその場を楽しんで食べる。そういった機会がなくなると、人間は日々の豊かさを失った気分になってしまうんですね。そういうことを思い返してみると、言葉を介さない、人間同士のつながりが人間社会を作るうえで重要なのだと改めて理解できた気がするんです。そしてこれほど情報社会が進み、様々なコミュニケーションツールが生まれても、代替できるものがない」13とも語っている。
効率性を重視しない時間の流れの中で、フィジカル空間での移動・接触・協働を通じて人間同士の信頼感・つながりや共感が醸成され、それはサイバー空間でのコミュニケーションツール(言葉・会話)では代替できないとの極めて明快な主張に、筆者は共感する。
11 同氏は、2020年9月30日をもって京都大学総長の任期が満了した。
12 NHKニュースウオッチ9(2020年5月25日放送)「京大・山極学長に聞く」より引用。ただし、(※ )は筆者が加筆。
13 文藝春秋digital(2020年6月25日)「デジタル独裁 VS. 東洋的人間主義 コロナ後の世界を制するのは?|小林喜光×山極壽一」より引用。
(2)メルケル独首相の考え方
ドイツのアンゲラ・メルケル首相は2020年3月に、拘束力のある接触制限など新型コロナ感染拡大防止のための防疫措置を講じることについて、テレビ演説を通して国民に理解と協力を呼びかけた。この中で同首相は、「日常生活における制約が、今すでにいかに厳しいものであるかは私も承知しています。イベント、見本市、コンサートがキャンセルされ、学校も、大学も、幼稚園も閉鎖され、遊び場で遊ぶこともできなくなりました。連邦と各州が合意した休業措置が、私たちの生活や民主主義に対する認識にとりいかに重大な介入であるかを承知しています。これらは、ドイツ連邦共和国がかつて経験したことがないような制約です。次の点はしかしぜひお伝えしたい。こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです」14と語った。
「渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間」と述べているのは、ハンブルク生まれの同首相が、生後間もなく当時西側への移動が禁じられていた旧東独のブランデンブルク地方に移住した生い立ちからであり、「移動の自由」が人間社会の在り方にとって極めて重要であり政治の力で安易に制限してはならず、平時には当然国民が取り戻すべき権利であるとの考え方が、この演説からにじみ出ているのではないだろうか。今回は感染拡大防止のため、苦渋の決断として、政治が介入して国民の移動・接触の自由に制限を加えるが、アフターコロナでは、移動・接触が制限された世界が決してニューノーマルの在り方ではない、ということだろう15。
14 ドイツ連邦共和国大使館・総領事館ホームページ「新型コロナウイルス感染症対策に関するメルケル首相のテレビ演説(2020年3月18日)」より引用。
15 その後ドイツは2020年11月初めに、飲食店の営業禁止を柱とする部分的なロックダウン(都市封鎖)を導入したが、新型コロナの新規感染者数は減少せず、12月13日、感染拡大に歯止めを掛けるため、12月16日から2021年1月10日まで食料品店や薬局などを除く商店の営業を禁止し学校も原則閉鎖とする、より厳しい制限措置を導入すると発表した。メルケル首相は9日の連邦議会(下院)での演説で、感情あらわに規制強化を呼びかけていた(日本経済新聞2020年12月14日夕刊「独、都市封鎖を強化」より引用)。その後、ロックダウンの期間は1月末、2月14日、3月7日、3月28日、4月18日と延長されてきている。
(3)両者の考え方に学ぶべき点
山極京大前総長とメルケル首相の考え方の根幹は両者ともに、「アフターコロナ(平時)においては、人間同士のつながり・信頼関係を形成するために欠かせない、かけがえのない移動・接触の自由を安易に放棄してはならない」ということではないだろうか。
両者の考え方を、人間の在り方や存在意義に関わる普遍的な議論として我々も肝に銘じ、移動・接触の制限を前提にサイバー空間に追いやられた現状を新たな日常であると諦めるのではなく、勿論サイバー空間も上手に利活用しながら、フィジカル空間での移動・接触の自由をどうしたら取り戻せるのかについてアイデアを出し合うべきだ。
4 コロナ後の働き方とワークプレイスの在り方~変えてはいけない原理原則
1|原理原則(1):メインオフィスの重要性
(1)フィジカル空間vsサイバー空間
「フィジカル空間での人間同士のつながり・信頼感の形成は、サイバー空間では代替できない」との山極京大前総長の考え方は、人間の主要な営みであるビジネス活動にも当然のことながら当てはまる。すなわち、イノベーション創出には、感情が見えにくく参加意識も希薄となりがちなサイバー空間でのやり取りだけでは限界があり、リアルな場での濃密な対面コミュニケーションが欠かせないため、主として大都市圏に立地するメインオフィスの重要性は、今後も変わらない16。
例えば、オンライン会議は、出張などの移動時間を節約できる利便性や交通機関の利用によるCO2排出量を削減できる環境性などから、今後もコミュニケーション手段の選択肢の1つとして当然積極活用されるべきだが、それのみではイノベーション創出を完結することはできないだろう。オンライン会議では、基本雑談はなく定刻通りに終了することが多いため時間的効率性は非常に高い反面、それゆえに議論が白熱せず創造性を創発する「ワクワク感」が湧かない、と感じることもあるのではないだろうか17。一方、メインオフィスなどリアルな場では、不必要に長い会議やミーティングは避けるべきだが、多少議論が白熱しても、フェースツーフェースで相手の反応や雰囲気を感じながら、本音の意見をぶつけ合う意義はやはり大きい。
因みに、山極京大前総長は、「大学にとってオンライン授業はトータルではプラスですか、マイナスですか」との問いに対して、「学びは人間が日々移動し他人と接触する過程でできていくものだ。オンラインである程度の補完はでき、利点になる部分はあるにせよ、全体としてはマイナスだと思う。オンラインで大講義室の授業は代替できる。どこにいても受けられるので、出席率は上がり、効率はよくなる。でも、集団で意見を交わし、自分の考えを正していくという大学本来の議論のあり方、セミナー的な討論の場は持ちにくい。相手の顔や周囲の雰囲気が読めないと、議論が熟さない。辛いところだ。だから、情報交換はオンラインでやっても、最後は対面が外せない」18と答えている。
「移動・接触して集まって協働することが人間社会の本来の在り方である」とする同氏の一貫した考え方に基づく明快な発言だ。オンライン授業をオンライン会議・テレワークに、対面授業をオフィスワークに置き換えてみると、同氏のこの発言は、ビジネスの世界にもぴったりと当てはまることがわかる。すなわち、テレワークやオンライン会議には効率性などの利点はあるものの、企業がオフィスを廃止してリモートワークに全面的に移行してしまうと、全体としてはマイナス効果がもたらされてしまう、と読み替えることができ、筆者の主張と合致する。
「相手の顔や周囲の雰囲気が読めないと、議論が熟さない」「情報交換はオンラインでやっても、最後は対面が外せない」との同氏の発言は、人間本来のコミュニケーションの本質を見事に突いている。ビジネスの世界でも、利便性からオンラインを勿論積極活用すべきだが、メインオフィスを中心にリアルな場での対面コミュニケーションを中核に位置付けるべきである、と言えよう。オフィスというリアルな場に集い信頼関係を醸成し協働(コラボレーション)することの重要性は、「人間社会の本来の在り方」や「人間の本性」に根差しているため、在宅勤務などのテレワークでは決して代替できない普遍的な原理原則と捉えるべきだ。この点をしっかりと理解しオフィス戦略にこれまで取り入れてきたのが、GAFAやマイクロソフトなど米国の巨大ハイテク企業だ。
16 筆者は、「画期的なイノベーション創出は、バーチャルなコミュニケーションではなく、フェースツーフェースの濃密なコミュニケーションが起点となる」との考え方を拙稿「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011年8月号にて提示した。
17 一方、オンライン会議には、対面に比べたメリットがあるとの意見も勿論ある。例えば、小林喜光三菱ケミカルホールディングス会長は、山極京大総長(当時)との対談の中で「企業のウェブ会議のほうは、『空気を読まないで喋れる』と好評ですよ。どうも、対面だと場の雰囲気を読んだり、相手の顔色をうかがったりして自由に喋れないんですね。ウェブだと、愛想笑いやゴマすりが通用しないのもいい(笑)」とウェブ会議の効用を述べている(引用文献は注13と同様)。
18 日本経済新聞2020年9月28日「オンライン授業の功罪 学び 他人と接触してこそ:京都大学長 山極寿一氏に聞く」より引用。
(2)米国の先進的IT企業のオフィス戦略
CRE戦略の先進企業でもあるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・ドット・コム)やマイクロソフトといった米国の巨大ハイテク企業は、自社所有の大規模な本社ビル19をクリエイティブオフィスとして構え、イノベーション創出の拠点と位置付けてきた20。米国でハイテク企業が多く集積するシリコンバレーやシアトルなどでは、「War for Talent(人材獲得戦争)」とまで言われるほど、企業間で人材の争奪戦が激しく繰り広げられており、企業は優秀な人材の確保・定着のために、必然的に働きやすいオフィス環境を整備・提供せざるを得ないという側面も大きい。
例えば、アップルは、2017年にカリフォルニア州クパチーノの広大な敷地(約71万m2)に新本社屋Apple Parkを構築した21。総工費は50億ドルと言われており、自社ビルへの投資としては極めて巨額だ。この新本社屋の構築は、創業者の亡きスティーブ・ジョブズ氏が指揮・主導したプロジェクトだった。最先端の建築技術や環境技術などを惜しげもなく駆使し、従業員の創造性やコラボレーション、健康の促進に重点を置いたApple Parkは、創造的なオフィスデザインをいち早く取り入れてきたジョブズ氏にとって、クリエイティブオフィスの集大成だったのではないだろうか。
現在はこれらの先進的ハイテク企業では、新型コロナ禍の下で、多くの従業員がメインオフィスでの業務再開が難しく在宅勤務中心の働き方を維持しているが、それでも、これまでイノベーション創出の起点や企業文化の象徴と位置付けてきた米国のメインオフィスの重要性を低下させることはない、と筆者はみている。
CRE戦略の下で、オフィスワークだけでなく、ICTを駆使してオフィスやデスクなど場所にとらわれずに仕事を行う「モバイルワーク」やテレワークなどを含む多様なワークスタイルや、従業員の安全と事業継続のためのBCPをしっかりと組み込んだ創造的なオフィス戦略を確立・実践してきた、米国の先進的なハイテク企業では、今回の新型コロナのパンデミック対応として、予め定められたBCPを発動し、それに沿って速やかに躊躇なく在宅勤務体制に移行した一方、パンデミックが終息し従業員の安全確保が確認されれば、直ちにBCPを解除しメインオフィスでの業務を再開するのが基本形である22、と筆者は考える。すなわち、CRE戦略の下でのオフィス戦略を既にきっちりと組織的に実践できている先進企業であれば、コロナ後には平時の体制に戻すのであって、コロナ禍での気付きによりBCPを修正・改善することはあったとしても、基本的には、最先端のワークスタイルやワークプレイスを活用したこれまでの戦略に大きな変更は生じないはずだ。ただし、パンデミック対応としてのBCPをしっかりとオフィス戦略に組み込んでいる先進企業であっても、全世界に急速に感染拡大してしまった新型コロナの想定外のインパクトが余りにも大きいために、足下のコロナ禍に引っ張られ、メインオフィスを中核に置くこれまでの戦略からブレてしまう企業も一部では出てくるかもしれない。
一方、後述するように日本の産業界では、そもそもCRE戦略の下でのオフィス戦略を実践する企業が未だ少ないため、パンデミックというストレス事象に翻弄されるとともに、コロナ禍を契機に働き方や働く場への戦略的な対応を慌ただしく迫られている企業が多い、というのが実態ではないだろうか。
19 米国の大企業の本社は、広大な敷地に構築されることが多いため、本社施設全体を「キャンパス」と呼ぶことが多い。
20 「イノベーションを起こすにはフェイストゥフェイスのコミュニケーションが欠かせず、バーチャル空間でのやり取りだけでは限界がある。GAFAといった巨大ハイテク企業でも大規模な本社ビルを構え、イノベーションの拠点と位置付けている」との筆者のコメントが、一井純「居抜きに間借り、コロナで変わるオフィス賃貸─オフィスのあり方を再考する契機に」東洋経済新報社『東洋経済ONLINE』2020年5月12日に掲載された。一井純「ニュース最前線/居抜きの利用や間借りも始まるオフィスの再定義」東洋経済新報社『週刊東洋経済』2020年5月30日号、同「第1特集 テレワーク総点検/通勤する価値はなくなるか?「オフィス不要論」の現実味」東洋経済新報社『週刊東洋経済』2020年6月6日号にも、筆者の同様のコメントが掲載されている。
21 Apple Park に関わる詳細な考察については、拙稿「健康に配慮するオフィス戦略」ニッセイ基礎研究所『基礎研レター』2020年3月31日、同「クリエイティブオフィスのすすめ」ニッセイ基礎研究所『ニッセイ基礎研所報』Vol.62(2018年6月)を参照されたい。
22 例えば、グーグルは「従業員のオフィスの出社再開を2カ月延期し、来年(※2021年)9月にする方針を明らかにした」(日本経済新聞2020年12月15日夕刊「グーグル、出社は来年9月」より引用。(※ )は筆者による注記)。また、アマゾン・ドット・コムは「ホワイトカラーの従業員について2021年6月末まで在宅勤務を認める。新型コロナウイルスの感染者が全米で再び急増する中で、オフィス再開を遅らせる」(ブルームバーグ2020年10月21日「アマゾン、在宅勤務が2021年6月末まで可能に─コロナ再流行の中」より引用)。
(3)アマゾン・ドット・コム:米国内で高度人材の雇用増とオフィス増床の計画をいち早く発表
【発表された人員増強・オフィス増床計画の概要】
筆者は、コロナ禍の中で、昨年いち早く「メインオフィスの重要性」は今後も変わらないことを主張した23が、その主張をサポートするように、アマゾン・ドット・コムは2020年8月18日、テキサス州ダラス、ミシガン州デトロイト、コロラド州デンバー、ニューヨーク州マンハッタン、アリゾナ州フェニックス、カリフォルニア州サンディエゴの東海岸から西海岸に至る全米6都市で、合計3,500人のテクノロジー人材およびコーポレート人材を新規雇用し、そのために14億ドル超を投じて「Tech Hub」と呼ぶ技術開発拠点とコーポレートオフィスを拡張する、と発表した24。CRE戦略の先進企業として、コロナ後の全面的なオフィス再開を見据えた、全くブレない骨太のオフィス戦略をいち早く示した、と高く評価したい。
今回の計画によるオフィス増床面積は合計90.5万フィート(約8.4万m2)となり、同社が北米で利用しているオフィススペース(約214万m2、2019年末)の3.9%に相当する(図表2)。新規雇用(3,500人)は、クラウドインフラストラクチャーアーキテクト25、ソフトウェアエンジニア、データサイエンティスト、プロダクトマネージャー、UX(User Experience:ユーザー体験)のデザイナーなど、同社の広範な事業に関わる高度人材の採用が予定され、全米の従業員規模(約10万人26)の3.5%程度に相当するとみられる(図表2)。今回の増床面積を新規雇用数で除することで1人当たりオフィススペースを簡易的に算出してみると、マンハッタンでの計画が約29m2とやや広めだが、それ以外では15~23m2と、従来の米国の標準的なオフィスやアマゾンの北米立地のオフィスの平均値(約21m2)と変わらない(図表2)。
23 筆者は、「メインオフィスの重要性」は今後も変わらないことを拙稿「<新時代の住宅・不動産Vol.3:オフィス戦略>今、企業に求められるサテライトオフィス活用~新型コロナウイルスがもたらすワークプレイス変革」日本経済新聞朝刊2020年6月30日にていち早く提示した。
24 本事案については、Amazon Press release: August18,2020“Amazon Announces Plans to Create 3,500 New Jobs in U.S. Tech Hubs in Dallas, Detroit, Denver, New York, Phoenix, and San Diego”を基に記述した。
25 Qiita Jobsに掲載されたAWS(Amazon Web Services:アマゾンのクラウドコンピューティングサービス事業を担う子会社)の求人情報によれば、クラウドインフラストラクチャーアーキテクトとは「パートナーの技術的な専門知識やスキルの獲得を支援し、キーとなるプロジェクトでは顧客やパートナーと直接協業する、高い技術力を持ったクラウドコンピューティングのコンサルタントを指す。PoC(実証)プロジェクトや技術ワークショップを実施し、導入プロジェクトをリードし、こうしたプロフェッショナルサービスのプロジェクトでは、ウェブアプリケーションやエンタープライズアプリケーション、HPC(高性能計算)、バッチ処理、ビッグデータ、データアーカイブ、災害対策、教育、ガバナンスといった様々なエリアで顧客のために課題解決に取り組む」という。
26 Amazon Press release:July22,2019“Amazon Announces Plans to Expand in Ohio; Two New Amazon Robotics Fulfillment Centers Will Create More Than 2,500 Full-Time Jobs”に「100,000 U.S. employees」という記載があるため、この数値を用いた。因みに、アマゾンの全世界の従業員数(2019年末)は79.8万人に上る。
【マンハッタンでオフィス拡張を続ける背景】
この6都市の計画のうち、ニューヨーク・マンハッタンでは、新規雇用が2,000人と全体計画の57%、新設オフィス面積が63万フィート(約5.8万m2)と全体の70%を占める、突出した最大のプロジェクトとなっている(図表2)。アマゾンは、2020年8月に米連邦破産法11条の適用を申請して経営破綻した老舗百貨店ロード・アンド・テイラーの旗艦店だったニューヨーク5番街のビルをウィーカンパニー(シェアオフィス大手ウィーワークの運営会社)から取得済みで、これをオフィスに転用する。
「アマゾンは17年9月に西部ワシントン州シアトルに続く第2本社の建設計画を発表。238の地域による誘致合戦の末、18年11月にニューヨーク市(※クイーンズ地区ロングアイランドシティ)と首都ワシントンに近いバージニア州北部(※アーリントン)に2つの新本社を設置すると発表した」27。しかし、「アマゾンは、ニューヨーク市クイーンズ地区で計画した第2本社の建設を地元の反対などで19年2月に断念した。その後も19年末にマンハッタンで最後の大型再開発とされるハドソンヤード地区のビルで賃貸契約を結ぶなど、ニューヨークでの事業拡大を続けている」28経緯がある。ニューヨーク市での第2本社建設計画を撤回した後も同市でのオフィス拡張に動いているのは、「東海岸の大都市に集まる優秀なハイテク人材の確保が必要と判断した」29からだという。
「マンハッタンのウエストサイドはシリコンバレー企業のハブとなり、アップルやアマゾン、グーグルらが拠点を構え、“シリコン・アレー”と呼ばれている」30という。中でもフェイスブックは、後述する通り、今後5~10年で社員の半数が在宅勤務になるとの見通しを2020年5月に示したため、今後在宅勤務中心の体制に急速に舵を切るとみられていたが、マンハッタンの歴史的建造物として知られる1912年竣工のジェームズ・ファーレー郵便局(ニューヨーク中央郵便局)のビルの一角をオフィスとして使用する大型賃貸契約(約6.8万m2)を不動産会社ボルネードと締結したことを同年8月3日にアナウンスし、専門家やメディアを驚かせた。「フェイスブックはここ1年で、20万平方メートル(※ジェームズ・ファーレービルの事案を含む)に及ぶオフィス物件の賃貸契約をニューヨークで締結しており、その全てはペンシルベニア駅とハドソン川の間に位置している」31という。シリコンバレーのメンローパークの広大な敷地に本社を構えるフェイスブックも、在宅勤務一辺倒ではなく、アマゾンと同様に、リアルな場であるオフィスは引続き非常に重要であると捉えているのだろう。
27 日本経済新聞電子版2019年2月15日「アマゾン、NY「第2本社」白紙に 地元の反対受け」より引用。(※ )は筆者による注記。
28 日本経済新聞夕刊2020年8月19日「アマゾン、オフィス拡張」より引用。アーリントンでの第2本社計画は、予定通り進められている。
> 29 時事ドットコム2019年12月7日「アマゾン、NYに新オフィス 第2本社撤回から1年弱で発表―米紙」より引用。
30 Forbes JAPAN2020年8月4日「フェイスブックがNYで大規模オフィス契約、不動産業界に朗報」より引用。
31 出典は注30と同様。(※ )は筆者による注記。
【不動産ポートフォリオの考察】
アマゾンが北米で利用するオフィススペースは、この10年間で事業規模の急成長とともに、急速に拡張されてきた。売上高(北米部門とクラウドサービス事業AWSの合算売上高32)が2012年から2020年までの8年間に年率30%で成長する一方、北米でのオフィススペースは、同期間に約47万m2から約273万m2まで年率25%で拡張されてきた(図表3)。このうち賃借スペースは、約30万m2から約220万㎡まで年率28%で拡張され、北米でのこれまでのオフィス増床を大きく牽引してきた。この結果、オフィススペースに占める賃借比率は同期間に64%から81%まで上昇した。
総利用面積が50万m2レベルに近付いた2012年からスペースの所有も開始し、20年末の所有スペースは約53万m2と全体の19%を占めている。自社所有のシアトル本社は、3本の高層オフィスタワー(37階)とスフィア(Amazon Spheres:熱帯雨林を模して植物がうっそうと茂る、3つのガラスドームをくっつけた低層のオフィス)で主として構成されるが、ドップラー(Doppler)と呼ばれる最初のタワーは、2015年にオープンしたため、所有スペースは2015年以降、増加ペースが高まっている。
直近の2020年末の北米でのオフィススペースは、賃借スペースを中心に前年末対比28%も拡張されており(賃借スペースは同31%増、所有スペースは同15%増)、コロナ禍の中でも極めて大幅なオフィス増床が躊躇なく実施された。2020年8月発表のオフィス増床計画の開業時期は不明だが、参考として2019年末の北米のオフィススペース(約214万m2)にこの増床計画(約8.4万m2)を合算した値(約222万m2)と2020年末のスペース実績値(約273万m2)を比べると、後者が約51万m2も上回っており、発表された増床計画を大幅に上回る規模の旺盛なオフィス増床プロジェクトが既にいくつか走っていたことが推測される(図表3)。
因みに、アマゾンが全世界で利用しているオフィススペース(約467万m2)のポートフォリオは、2020年末で北米の賃借スペースが約220万m2(構成比47.2%)と最も多く、海外(北米以外)の賃借スペースが約177万m2(同37.8%)、北米の所有スペースが約53万m2(同11.3%)で続いている(図表4)。全世界のオフィススペースを賃借・所有の区分で見ると、賃借スペースが約397万m2(構成比85%)、所有スペースが約70万m2(同15%)と、賃借が圧倒的に多い(図表5)。
また、アマゾンの施設全体のポートフォリオ(約4,408万m2、2020年末)を見ると、北米の「配送センター(Fulfillmentと呼ぶ)・データセンター他」の賃借スペースが約2,654万m2(構成比60.2%)と圧倒的に最も多く、海外の「配送センター・データセンター他」の賃借スペースが約972万m2(同22.1%)、北米の「オフィス」の賃借スペースが約220万m2(同5%)、北米の「小売実店舗」の賃借スペースが約197万m2(同4.5%)、海外の「オフィス」の賃借スペースが約177万m2(同4%)、北米の「配送センター・データセンター他」の所有スペースが約79万m2(同1.8%)、北米の「オフィス」の所有スペースが約53万m2(同1.2%)で続いている(図表5)。全体の施設ポートフォリオを賃借・所有の区分で見ると、賃借スペースが約4,222万m2(構成比95.8%)、所有スペースが約187万m2(同4.2%)と、賃借が圧倒的に多い。また用途別の区分(アセットクラス)で見ると、配送センター・データセンター他が約3,737万m2(構成比84.8%)と圧倒的に最も多く、オフィススペースが約467万m2(同10.6%)、小売実店舗が約204万m2(同4.6%)で続いている(図表5)。
32 アマゾンの財務報告において現在開示されているセグメント情報は、「North America(北米)」、「International(海外:北米以外の地域)」、「AWS(クラウドコンピューティングサービス)」の3部門に分かれる。北米部門と海外部門には、ネット通販事業、Amazonプライム等サブスクリプション事業、実店舗小売事業など、AWSを除くすべての事業が含まれる。AWSは日本を含めグローバル展開が図られているが、北米での事業規模が比較的大きいとみられ、ここでは、北米部門とAWS部門を合算したものを北米事業であると大雑把に捉えることとした。
【創造的なオフィス空間の重要性を熟知】
このように、アマゾンはこれまで事業拡大に合わせて、北米でのオフィス増床をハイペースで実施してきたのだが、コロナ禍の中でもさらなるオフィス拡張に動くのは、単純に成長企業であるとの理由だけではない、と筆者は考える。
「米IT企業ではツイッターが(※2020年)5月12日、約5,100人の全社員を対象として一定の条件を満たせば期限を設けずに在宅勤務を認める方針を示した」のに続き、「フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)は(※2020年5月)21日、今後5~10年で社員の半数が自宅で勤務するようになるとの見通しを示した。新型コロナウイルスへの対応として始めた在宅勤務の成果をふまえ、自宅で働くことを前提とした技術者の採用を始めるなど社内体制を整備する」33という。
世界最大のクラウドベンダーでもあるアマゾンなら、両社のように、在宅勤務を前提とした人材採用により大幅なオフィス増床を回避したり、コーポレート・技術開発系の全社員を対象にした完全リモートワーク体制に移行したりすることは、技術的には容易に可能であろう。アマゾンは、コロナ禍の中でもあえてそれをやらずに、従業員増員に合わせてオフィス増床をきっちりと行うことを決めたのは、BCP対策や多様な働き方の1つとして在宅勤務という選択肢も勿論備えつつも、何よりも快適なオフィス空間が従業員の活力や創造性に大きく影響を与えることを熟知しているからだろう。経営陣の目利きで選りすぐった優秀な人材を採用しているとの確信の下に、快適なオフィス環境と柔軟で裁量的な働き方をセットで備えた創造的で自由な環境さえ提供すれば、厚い信頼を置く従業員の創造性は最大限に引き出され、イノベーションが生み出されるとの考え方が、経営陣に浸透していると思われる34。
このような考え方は、アマゾンに限らず、アップル、グーグル、フェイスブック、マイクロソフトといった米国の先進的な巨大ハイテク企業に共通するものだ。対照的に人材採用に自信を持てない経営トップは、従業員を性悪説的に捉えがちとなり、創造的で自由な働く環境を従業員に提供するとの考えには至らないだろう。従業員に寄り添うオフィス戦略を描けない、このような経営トップは、オフィスを単なるコストとのみ捉えがちであり、短期利益を確保するコスト削減のために安易にオフィススペースを削減することもあるだろう。
33 日本経済新聞電子版2020年5月22日「Facebook 社員の半数、「コロナ後」も在宅勤務」より引用((※ )は筆者による注記)。左記記事によれば、フェイスブックでは「新たに採用する在宅勤務を前提とした技術者は、同社の米国内の開発拠点から4時間以内の地域に住んでいることを条件とする。採用拡大に向けて米東部のアトランタなどに拠点を設ける方針を示した」という。またツイッターでは「オフィス再開後に出勤を希望するスタッフには、出社を認める」(BBCニュース2020年5月13日「ツイッター、在宅勤務を「永遠に」許可へ 新型ウイルス対策で効果実感」より引用)といい、両社ともに在宅勤務の重要性を今回再確認しつつも、極端な「オフィス不要論」には走らない柔軟な対応を取る、と筆者はみている(フェイスブックについては、本文に記述した通り、ニューヨークでオフィスの大幅な拡張を進めている)。
34 筆者は、このような考え方を拙稿「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011年8月号にて提示した。
【集積の不経済に対応したオフィス分散化】
第2本社プロジェクトが進められているアーリントンに加え、2020年8月に発表されたオフィス拡張計画が実施される6都市は、いずれも本社のあるシアトルに近接しない、全米の東海岸から西海岸に至る広範な範囲に分布するため、徹底したオフィス分散化によるBCP強化の狙いも大きいとみられる。
また、シリコンバレーやシアトルといった米国のハイテク企業の一大集積地では、人材獲得競争の激化に加え、ハイテク企業に勤務する高所得者の増加に伴う住宅価格・家賃の急騰、住宅不足や交通渋滞など集積の不経済(デメリット)が一部で現れ始めている。アマゾンでは、この集積の不経済を食い止めるとともに、相対的に割安なコストでの雇用増が見込める都市へ進出するためにも、シアトルからのオフィス分散化が喫緊の課題と捉えられているのではないだろうか。また、アマゾンは今年1月に「米国内の本社や拠点の周辺地域に20億ドル(約2,060億円)を投じ、中低所得者向けの低価格帯の住宅を建設すると発表した。高賃金のアマゾン社員の増加に伴う地域の家賃高騰や住宅不足に対応する。本社のあるワシントン州シアトル近郊のピュージェット湾岸地域、第2本社となるバージニア州アーリントン、オペレーションセンターを建設するテネシー州ナッシュビルでの建設を想定している。5年間で少なくとも2万戸の住居を提供する計画だ」35といい、企業市民として集積の不経済を直接取り除く取組にも着手した。アマゾン以外のGAFAも「グーグル親会社のアルファベットやフェイスブックは、すでに手ごろな価格の住宅整備に乗り出している。アップルはカリフォルニア州の住宅難解消に向け、25億ドルの基金を拠出する方針を明らかにしている」36という。企業は、地域・都市に構築した拠点を起点に事業活動を通じて、地域活性化や社会課題解決など「外部経済効果」を最大限に引き出すことに取り組むとともに、立地したことで「外部不経済」が発生するのであれば、それを最小化・ゼロ化しなければならない37。特にGAFAなど巨大デジタルプラットフォーマーが及ぼす社会的インパクトは非常に大きくなっているため、このような視点がより強く求められている、と思われる。
このようにシリコンバレーやシアトルでは集積の不経済が一部で現れ始める一方で、ニューヨークには、GAFAやスタートアップなどハイテク企業が近年相次いで進出し、前述の通り、アマゾンやフェイスブックはコロナ禍の中でもオフィス拡張に積極的に動いていることから、世界有数のメガシティであるニューヨークでは、集積の経済(メリット)が依然としてしっかりと働いていると、多くのハイテク企業が捉えているとみられる。
日本の産業界では、コロナ禍でオフィスの利用率が大幅に低下する中、「オフィスは不要」とまでは言わないまでも、「現状のオフィススペースを維持するのは難しい」と考えている企業は多いのではないだろうか。アマゾンやフェイスブックは確かに成長企業ではあるが、現状ではオフィスを増床するアイデアなどとても出てこないであろう、大半の日本企業と余りにも好対照だ。コロナ禍の中でも、アマゾンが全米にわたる広範かつ大規模なオフィス分散化への投資を戦略的かつ果敢に続行し、フェイスブックは在宅勤務をフル活用しつつも、次のハイテク集積地と期待されるニューヨークには、大規模なオフィススペースの確保に大胆に乗り出すことで、メインオフィスをワークプレイスの中核にしっかりと据えることを堅持しつつ、メリハリの利いた柔軟かつ機動的な経営判断を行っているのを見ると、米国の巨大ハイテク企業の凄みを改めて感じる。
35 日本経済新聞電子版2021年1月7日「米Amazonが低価格住宅 本社周辺など家賃高騰批判で」より引用。
36 出典は注35と同様。
37 筆者は、このような考え方を拙稿「CSRとCRE戦略」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2015年3月31日にて提示した。
(4)グーグル:アマゾンに続き米国内でのオフィス増床と雇用増の続行を表明
オフィス空間が従業員の創造性に大きく影響を与えることを熟知し、早くから従業員に贅沢なまでの快適なオフィス空間を提供してきたグーグルも、アマゾンの昨年8月の発表に続き、全米にわたってオフィス増床を続けることを今年3月18日に表明した。グーグルおよびアルファベットのCEO(最高経営責任者)サンダー・ピチャイ氏が、2021年に全米各地でオフィスとデータセンターの新増設に70億ドル超の投資を行うとともに、米国のグーグルで少なくとも1万人のフルタイム従業員を新規雇用する計画であることを、グーグルの公式ブログを通じて発表したものだ38。
ピチャイ氏は、同ブログの中で「社員間でコラボレーションしコミュニティを構築するために直接集まることは、グーグルの文化の中核であり、今後も我々の将来の重要な部分となるだろう。だから我々は、全米にわたってオフィスへの大規模な投資を引続き行う」と述べている。同社では、社内にコミュニティを形成しイノベーションを創出するための場としてのオフィスの重要性が企業文化として根付いているため、コロナ禍の中でも必要不可欠な投資としてオフィスの大幅な拡張を躊躇なく続行できているのであり、ピチャイ氏のブレない考え方に、筆者は強く共感する。
計画では、オフィスを新増設する都市は、首都ワシントン、ニューヨークなどの東海岸からマウンテンビュー、シアトルなど西海岸にわたる13州17都市(筆者集計)の米国全土に及び、昨年発表のアマゾンの計画より広範かつ大規模とみられる(図表6)。このうち、バージニア州レストン、テキサス州ヒューストン、ミネソタ州ロチェスター、オレゴン州ポートランドでは、オフィスを新たに開設する。その他は既存拠点での拡張とみられ、アトランタ(ジョージア州)、首都ワシントン、シカゴ(イリノイ州)、ニューヨーク(ニューヨーク州)では、「数千の業務(※≒雇用)を追加する計画39/sup>である」という。特にニューヨークでは、従業員数を2028年までに倍増させることを2018年にコミットしており、この目標を達成するために同市でのキャンパスの存在感を高めるオフィス投資を継続する40。
グーグルは、米国全土に及ぶ極めて広範なオフィス分散化により、BCPの強化や全米の多様なコミュニティでの雇用増・投資増を通じた地域活性化・地域貢献などを果そうとしているとみられる。一方で、最も重要な本拠と位置付けられる本社(マウンテンビュー市)を置く地元のカリフォルニア州では、今年10億ドル超を投じてオフィス増強41を引続き図るとともに、ベイエリアでの住宅の価格高騰・不足の改善に向け10億ドルを投じて対策を講じるコミットメント(2019年発表)の一環として、中低所得者向け低価格住宅の整備促進のサポートを続け、本社のあるシリコンバレーでの一極集中による集積の不経済の緩和への貢献も企業市民として怠らない(図表6)。この住宅問題へのコミットメントの一環で当社が創設した2.5億ドルのファンドの支援によって、2029年までにベイエリアで2.4万戸の低価格住宅が建設される見通しだという。
創造的なオフィスのメリットを熟知しこれまでそれを十分に使いこなしてきたオフィス戦略のベストプラクティスである、アマゾンとグーグルが、コロナ禍の中で、あえて米国内でのオフィス増床を続行するとの力強い表明を揃って行ったことで、筆者が昨年いち早く打ち出した「コロナ前後でオフィスの重要性は何ら変わらない」との主張の正当性・信憑性を、より強く認識して頂けるのではないだろうか。コロナ禍の中でも、「オフィスの重要性」を変えてはいけない原理原則としてこだわる、両社の全くブレない経営戦略の一貫性は、日本企業が学ぶべき重要な視点の1つだ。
38 本事案については、Sundar Pichai,CEO of Google and Alphabet“COMPANY ANNOUNCEMENTS:Investing in America in 2021”blog.googleを基に記述した。
39 原文は“plans to add thousands of roles in Atlanta, Washington, D.C., Chicago and New York”。※は筆者による注記。
40 ニューヨーク市のデブラシオ市長によれば、グーグルの計画ではニューヨーク市で今年2億5,000万ドルを投資し、従業員数を現在の1万1,000人から数年後には1万4,000人に増やす(CNN2021年3月22日「米グーグル、オフィスやデータセンターに7600億円投資」より引用)。
41 カリフォルニア州の本社近くでは、年内の完成を目指して新たな社屋の建設を進めている(日本経済新聞電子版2021年3月19日「Googleが米で7600億円投資 21年、オフィスなどを拡張」より引用)。
(5)オフィス戦略の実践で遅れを取る日本企業
一方、クリエイティブオフィスの考え方を取り入れ実践する日本企業は、一部の大企業やベンチャー企業など、未だごく一部の先進企業にとどまっている。多くの日本企業では、オフィス環境の整備の巧拙が人材の確保・定着に大きな影響を及ぼすとの危機感は、未だ欠如しているのではないだろうか。日本企業が前述のアップルやアマゾン、グーグルに学ぶべき点は、従業員の創造性や健康の促進を通じたイノベーションの創出、企業文化の醸成や経営理念の体現のためには、オフィスへの戦略投資を惜しんではいけないということだろう。
日本企業の経営者が、コロナ禍での経験から在宅勤務で多くの業務をこなせると判断し、メインオフィスの重要性を不用意に低下させてしまうと、リアルな場でのやり取りが軽視されてイノベーションが停滞するリスクが高まるのではないだろうか。経営層が、「コロナ禍で導入した在宅勤務でも仕事がちゃんと回ったので、今後も在宅勤務を中心とした働き方を継続する」と判断するなら、いささか早計に過ぎないだろうか。
コロナ禍での在宅勤務により、確かに「意外とやってみると在宅でも業務をこなせる」「在宅勤務はオフィス執務時と比べても特に支障はない」との気付きを得た従業員もいるだろう。しかし、今回の在宅勤務の実施は前述の通りBCP対策(感染リスクを常に警戒しなければならないウィズコロナ期はその延長と捉えられる)であるため、特に昨年の1回目の緊急事態宣言下では、基本的に従業員に選択の余地はなく、一見業務が回っているように見えていても、「在宅勤務の一択なのだから無理にでも業務をこなすしかなかった」「自宅に執務環境が整っておらず、オフィス執務時に比べ生産性は低下した」という従業員もいたはずだ。ニューノーマルでは、企業は従業員全員がストレスを感じずに健康で快適に働ける環境の確保を一層目指すべきだが、後者の従業員の場合、そのような環境にあるとは言い難い。
企業が在宅勤務を原則とする働き方に全面的にシフトするのであれば、それによって従業員にとって健康で快適な環境が担保できるのか、業務の生産性をオフィス執務時と比べ同等以上にできるのか、さらには従業員の自宅での作業環境の整備に対する金銭的サポートがどの程度必要なのか、などについて十分に検証し見極めることが必要だろう。その際に、アンケートやヒアリングなどを通じて従業員から幅広く丁寧に意見を収集することが欠かせない。そのためには本来、平時を取り戻すアフターコロナ期において十分な時間をかけて検証を行うべきであり、平時とは次元の異なる切迫したBCP実施期間では十分な検証を行い得ないのではないだろうか。
それでも現時点で早々と在宅勤務中心の働き方に舵を切ろうとしている企業は、これまでもコロナ前からそのような施策を講じようとしたものの普及・定着しなかったため、今回はBCP対策とは言え初めて大規模に実施できたことを契機に、経営の強い意思として一気呵成に推進し、在宅勤務を働き方改革や従業員の意識変革を促進するためのドライバーにしようとしているのではないか、と筆者は推測する。
ただ、BCP対応として初めて大規模に緊急導入した、在宅勤務主体の働き方をいきなり拙速にそのまま平時に本格導入するより、順序としては、日本企業での導入・実践が遅れている大元のCRE戦略の構築に一刻も早く着手し、その下で働き方改革やBCPの考え方をしっかりと取り入れたオフィス戦略の推進・定着を急ぐことこそが、多くの日本企業にとって先決ではないだろうか。その上で、働き方・働く場の具体的な選択肢・施策として在宅勤務をどう扱うかについて検討しても遅くはない。逆に言えば、大元のCRE戦略とその下でのオフィス戦略がないままに、在宅勤務などの具体的施策だけを先行して検討することは、働き方・働く場に関わる全体方針・全体戦略がない中で、その具体施策検討のための指針や評価軸を持たないで意思決定を行うことになりかねない。
日本では、「企業はコロナ禍を契機として、メインオフィスの役割・在り方を再定義すべきであり、従業員がコミュニケーションを交わしコラボレーションを実践する創造的な場にメインオフィスを変えるべき」といった意見が多く聞かれるが、そのような視点は、再定義するまでもなく、筆者が提唱する前述の「クリエイティブオフィスの基本モデル」に既に織り込まれており、また米国の先進的なハイテク企業では既にこれまで実践されてきたことだ。メインオフィスの在り方や普遍的な原理原則は、コロナ前から既に明確になっており、コロナ前後で再定義されたり変更されたりするようなものではない、と筆者は考える。今やるべきことは、オフィスを再定義することではなく、多くの日本企業でこれまで実践されてこなかった、創造的なオフィスづくり(クリエイティブオフィスの構築・運用)の考え方を一刻も早く取り入れ、その基盤となるCRE戦略の下で組織的に実践すべきである、ということに尽きるのではないだろうか。
筆者が原理原則の1番目に挙げた「メインオフィスの重要性」、すなわち「メインオフィスを働く場の中核に据えることの重要性」については、「テレワークなどの新しい働き方=ニューノーマルに移行するのではなく、オフィスワーク中心のコロナ前にまた戻るのか」と懐疑的・否定的に捉える向きがあるかもしれないので、この点については、ここで再度議論を整理・確認しておきたい。そもそもメインオフィスの重要性は、原理原則としてコロナ前後で何ら変わらない、ということを強調しておきたい。そして、この重要性を熟知し実践してきた米国の先進的なハイテク企業では、コロナ後に従業員の安全性が確認されれば、速やかに躊躇なくメインオフィスでの業務を全面的に再開する、すなわちコロナ前の体制に積極的な意味で「戻す」だろう、と筆者はみている。一方、多くの日本企業では、残念ながら、これまでメインオフィスをイノベーション創出や経営理念・企業文化体現の場として十分に活かし切れていなかった、と言わざるを得ない。従って、多くの日本企業の在り方としては、コロナ後にコロナ前の体制に戻るのではなく、この原理原則を実践すべく、CRE戦略をしっかりと導入した上で、それに基づく創造的なオフィス戦略を新たに構築することが急務なのである。これまでメインオフィスを十分に使いこなしてこなかった企業が、組織的なCRE戦略やオフィス戦略の構築なしに、BCP対策として導入したテレワークを中心とした働き方にコロナ後に全面移行するのであれば、筆者としては、やはりリスクを懸念せざるを得ない。
(6)経営理念・企業文化の象徴としてのメインオフィスの重要性
メインオフィスは、イノベーション創出の拠点であるとともに、経営理念や企業文化の象徴として求心力を持つ全社的な拠り所や従業員の帰属意識を高める場42でもあるべきだが、在宅勤務やサテライトオフィスでのテレワークでは、このような機能を代替し得ない。逆に、メインオフィスで醸成される従業員間の信頼感(=企業内ソーシャル・キャピタル)は、テレワークの円滑な運用に欠かせない。テレワークのデメリットとして、「社内のコミュニケーションがとりにくく、組織の結束・一体感を維持することが困難になる」「管理職にとって、部下の仕事ぶりを確認しづらい・評価しづらい」がよく挙げられるが、日頃からオフィスで対面でのコミュニケーションを従業員間や管理職・部下間でしっかりと重ね信頼関係を十分に構築していれば、テレワークにおいて、このようなデメリットは生じないはずだ。このように、メインオフィスはテレワークでは代替できない極めて重要な機能を装備するとともに、テレワークに対しては補完効果を持つ点も、筆者がメインオフィスの重要性を主張する重要な背景である。
前述のクリエイティブオフィスの基本モデルは、経営理念とワークスタイル変革という「魂」を吹き込んで初めて、各社仕様にカスタマイズして実際に起動させることができる、と筆者は考えている43。オフィスに経営理念を吹き込むとは、経営理念にふさわしい「オフィスのロケーションの選択」、「インフィル(内装)を含めた不動産としての設えの構築」、「オフィスの愛称の選択」などを各々実践することだ。経営理念にふさわしい各々の具体例としては、「オフィスのロケーション」では創業の地、「内装を含めた不動産としての設え」では、上下関係にこだわらないフラットな組織を志向する経営トップが島型対向レイアウトではなく、ひな壇を排したフラットなレイアウトであるユニバーサルプランを選択すること、「オフィスの愛称」では、創業の精神、今後の経営の方向性、オフィスの設計コンセプトなどを連想できるようなもの(例:街をモチーフとした設計デザインであれば、「シティ」という言葉を入れ込む)、などが挙げられる。
「仏作って魂を入れず」では、どんなにクリエイティブオフィスを標榜しても、それはただのハコになってしまう。そうではなく、経営理念とワークスタイル変革という魂を注入したオフィスこそが重要なのだ。前述のApple Parkは、アップルにとってまさにそのような場だ。
42 筆者は、「オフィスは、経営トップの戦略意図や経営理念を象徴的に示すものである」との考え方を拙稿「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011年8月号にて提示した。
43 筆者は、このような考え方を拙稿「クリエイティブオフィスの時代へ」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2016年3月8日にて提示した。
2|原理原則(2):働く環境の多様な選択の自由の重要性
(1)働き方改革の本質の追求
メインオフィスの重要性とともに変えてはいけない原理原則は、従業員にその時々のニーズに応じて働く場所や働き方の選択の自由を与えることであり、働き方改革の本質そのものだ。企業が従業員の個々の事情に寄り添って、時間や場所にとらわれない多様で柔軟な働き方をサポートすることは、従業員の満足度や士気・忠誠心を高めるとともに、働きがい・快適性・幸福感を向上させ、活力・意欲・能力・創造性を存分に引き出すことにつながり得るからだ。このことは、生産性向上やイノベーションを生み出す土壌を醸成することになる。
世界最大級の総合不動産サービス会社である米ジョーンズ ラング ラサール(JLL)は、働くスペースやツールの選択の自由が与えられていることを「Empowerment(エンパワーメント)」と呼び、働く場所や働き方により多くの選択肢が与えられている従業員の方が、より高い「Engagement(エンゲージメント:会社との結びつきや愛着)」を示す、と指摘している44。
この第二の原理原則についても、海外の先進企業では既に実践されている一方、日本企業では必ずしも徹底されていないのではないだろうか。
44 JLL「ヒューマン・エクスペリエンスがもたらすワークプレイス」(2017年6月22日)より引用。
(2)従業員の多様なニーズに対応できる働きやすい環境の多様な選択肢の提供
従業員の能力や創造性を最大限に引き出すためには、メインオフィスをワークプレイスの中核に据えつつも、個々の多様なニーズに最大限対応できる働きやすい環境の多様な選択肢が従業員に提供され、従業員はその時々のニーズに応じて、その中から働く環境を自由に使い分けられることが重要だ。
そのためにはメインオフィス内でも、従業員同士の交流を促すオープンな環境と集中できる静かな環境といった両極端にある要素を共存させるなど、多様なスペースの設置が求められる(図表7)。社内でデスクを固定しない「フリーアドレス」は、従業員同士の交流を促す施策の1つだが、この場合も、フリーアドレスの一択ではなく、1人で集中して業務に取り組めるスペースを併設するなどの工夫が必要だ。
また平時での在宅勤務は、経営側からの指示ではなく、従業員が多様な働き方の選択肢の1つとしていつでも自由に選択できるようにすべきだ。多様で柔軟な働き方の実現が何よりも重要であるのに、経営側が特定の在宅勤務率を設定して従業員にそれを強いるのでは、むしろ働き方の多様性を阻害しかねない。在宅勤務率は本来、従業員の自己決定による選択の結果決まってくるべきものである。働き方の選択肢の1つと位置付けるべき在宅勤務は、平時では「all or nothing」とはならず、在宅勤務の比率はゼロ%と100%の間に収まるはずだが、筆者が主張するようにメインオフィスをワークプレイスの中核に据える戦略を取る場合は、会社側がその方針を従業員に明確に示した上で、目安値・推奨値・ガイダンス(例えば、週2日以内の在宅勤務の推奨)や上限値(例えば、週2日)を設定して、従業員の選択をある程度誘導したり緩やかにコントロールすることはあり得るだろう。
一方、メインオフィスと在宅勤務の間には、サテライトオフィスやコワーキングスペースなどのオプションが存在しており、それらのサードプレイスオフィスの活用も選択肢として積極的に取り入れるべきだ。サテライトオフィスについては、前述の在宅勤務を補完する郊外型に加え、都市圏や地方に立地する施設の活用も一法だろう(図表7)。特にリゾート地や地方などでは、ICT活用により、休暇取得や研修受講などを兼ねて短中期的に滞在し仕事を行う「ワーケーション」という新しい働き方が、地元自治体とディベロッパー・不動産会社、ITベンダー、通信キャリア、旅行業者・宿泊業者などの民間事業者との協働の事業展開により一部地域で可能となっており、多様で創造的な働き方の選択肢として一考の価値があるだろう。そこでの働く場はワーケーションオフィス45と言い、一種のサテライトオフィスと考えられる。
和歌山県白浜町は、都市圏の企業などに対してサテライトオフィスやワーケーションの積極的な誘致をいち早く推進してきた。クラウド型CRM(顧客管理)ソフトウェアの世界最大手である米セールスフォース・ドットコムの日本法人は、東京丸の内のJPタワーにメインオフィス(東京オフィスと呼ぶ)を構えるが、白浜町が管理する白浜町第1ITビジネスオフィスに2015年サテライトオフィスを開設し、同町にいち早く進出した。これを契機にIT企業の集積が進展しており、同町ではシリコンバレーのような場所「シラコンバレー」を真剣に目指している。
直近では、三重県がワーケーションの積極的な誘致に乗り出している。同県は、伊勢神宮、熊野古道、伊勢志摩鳥羽など世界有数の魅力的な観光スポットを有しており、ワーケーションの立地としてのポテンシャルは極めて高いと思われる。
45 和歌山県の白浜町において三菱地所が2019年に開業した事例が、先駆的取組として挙げられる。
5 組織スラックを備えた経営の実践
1|働き方改革とBCPの推進に向けて短期志向から中長期志向の経営へ
働き方改革を推進するための働く環境の多様化と、新型コロナのようなパンデミックや災害に対応したBCP対策の強化を進めるには、企業は主として都市部に立地するメインオフィスを中核に据えつつも、拠点配置の分散化・二重化を図ることが欠かせない。日本企業はコロナ禍を契機に、短期的な収益や効率性にとらわれがちだった視点を改め、中長期のイノベーション創出やサステナビリティ(sustainability:持続可能性)確保のために短期的には効率が低下しても、経営資源をぎりぎり必要な分しか持たない「リーン(lean)型」の経営ではなく、経営資源にある程度の余裕、いわゆる「組織スラック(organizational slack)」46を備えた経営を実践しなければならない。
例えば、メインオフィスにおいては、従業員が気軽に集える休憩・共用スペースは、イノベーション創出のために確保しておくべき組織スラックであるが、リーン型の経営を徹底すれば、仕事に関係のない無駄なものとして撤去されてしまうだろう。また、様々な利用シーンに応じて多様性を取り入れたオフィス空間も、リーン型の経営者には極めて非効率な空間とみなされ、従業員の利便性を考えずに、維持管理の手間やコストが相対的に掛からない選択肢の少ない画一的な空間に変更されてしまうだろう。これまで多くの日本企業がそうであったように、効率性のみを追求したオフィス空間は、個性のない均質なものになってしまう。そうすると、目先の不動産コストは削減できても、それと引き換えに何よりも大切な社内の活気や創造性が失われ、企業内ソーシャル・キャピタルは破壊され、イノベーションが生まれない悪循環に陥ることになるだろう。
オンライン会議は、基本的に雑談はなく定刻通りに終了する傾向があるため、時間的効率性の高いリーン型の手法に分類できるだろう。一方、山極京大前総長が、「効率性を重んじないゆっくりとした時間の流れに身を任せながら他者とじっくりつき合うということを経験しなければ、信頼関係は醸成されない」(前出)と述べているように、人間同士の信頼関係、すなわちソーシャル・キャピタルは、時間的効率性が高いリーン型の環境下ではなく、むしろ目先の効率性を重視しない組織スラック型の環境下でしか形成されない。前述のクリエイティブオフィスの基本モデルにおける具体原則の1つとして挙げた「企業内ソーシャル・キャピタルを育む視点」、すなわち「カフェ、カフェテリア、キッチン、ライブラリー、エントランスなどの広間(ホール)、階段の吹き抜けスペース、開放的な内階段、エスカレーターなど、異なる部門の従業員による偶発的な出会いやインフォーマルなコミュニケーションを喚起するための休憩・共用スペースをフロアの中心にレイアウトするなど、動線に合わせて効果的に設置すること」は、まさにリアルな場での従業員間の信頼感・人的ネットワークを醸成するための組織スラック型の仕掛けなのだ。
目先の利益を優先する効率性・経済性ありきの経営、言い換えれば「短期志向(ショートターミズム:short-termism)の経営」47は、結局中長期で見れば、組織スラックを破壊してしまい経済的リターンをもたらさないと言える。ソーシャル・キャピタルや創造性を育み、結果として中長期での経済的リターンを獲得するためには、イノベーションの源となる「組織スラックに投資する」という発想が欠かせない。組織スラックは、中長期の企業価値創造につながる極めて重要な経営資源と考えるべきだ。
46 組織スラックの考え方については、拙稿「震災復興で問われるCSR(企業の社会的責任)」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2011年5月13日、同「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011 年8 月号、同「アップルの成長神話は終焉したのか」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2013年10月24日、同「コロナ後を見据えた企業経営の在り方」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2020年8月28日、同「特別レポート:コロナ後を見据えた企業経営の在り方」日本生命保険相互会社(協力:ニッセイ基礎研究所)『 ニッセイ景況アンケート調査結果-2020年度調査』2020年12月8日を参照されたい。
47 筆者は「我が国の大企業の多くが2005年前後を境に短期志向の株主至上主義へ拙速に傾いた」と考えているが、筆者のこのような考え方については、拙稿「CSR(企業の社会的責任)再考」『ニッセイ基礎研REPORT』2009年12月号、同「最近の企業不祥事を考える」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2015年12月28日、同「社会的ミッション起点のCSR経営のすすめ」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2019年3月25日を参照されたい。
2|利用率が大幅に下がっているオフィススペースは組織スラックと捉えるべき
従業員に寄り添う真の働き方改革やBCP対策の強化を推進するために、一見非効率に見えても、図表7に示したような多様な働く場を平時から準備・構築・確保しておくことは、組織スラック型の経営に他ならない。目先の利益を優先しリーン型の経営に偏重する経営者には、ワークプレイスのポートフォリオとしては極めて非効率に映り耐え難いものだろう。そのような経営者なら、全席を固定席またはフリーアドレス席とする画一的な空間しか備えないメインオフィス1棟に集約するか、または「オフィス不要論」を唱えてメインオフィスを手放し全社員が常時在宅勤務とする体制に移行させるのかもしれない。
このように働く場を一方向に統一してしまうことは、リーン型偏重の経営者にとって効率的に見える体制だが、従業員にとっては働き方が一択しかなく支持し難いものであり、働きがいや快適性は低下するだろう。このため目先のコストは節約できても、イノベーションや生産性の向上は起こらないだろう。また、このような一択の柔軟性に欠ける体制では、パンデミックや災害など想定外のストレス事象が起きて業務が停止した際には脆弱性を露呈し、代替策をイチから立ち上げるのに時間がかかるため、レジリエンス(resilience:回復力・復元力)は極めて低い。従って、リーン型偏重の体制は組織スラックとは反対に、中長期では企業価値を破壊しかねないのだ。
その意味では、コロナ禍の下で企業において、在宅勤務の比率が急上昇したためにメインオフィスの利用率(在席率)が大幅に低下した結果、一見すると余剰のように見える未利用のオフィススペースが発生していることについては、経営者はどう考え行動すべきだろうか。筆者は、この一時的に未利用となっているオフィススペースを単なる余剰ではなく、組織スラックと捉えてできるだけ維持するべきであり、在宅勤務の効果をしっかりと検証・確認できていない中で、短期的なコスト削減のために安易にメインオフィスのスペースを削減したり手放したりするべきではない、と考える。
日常を取り戻せるアフターコロナ時代に至るまでの暫定移行期とも言えるウィズコロナ期は、具体的な期間が見通せない中、一刻も早く治療薬が確立されワクチンが広く行き渡ることで、できるだけ短い期間で終わることが望まれるが、この期間においては、企業はその時々の新型コロナの感染状況を見ながら、ワークププレイスの利用・運用方針を臨機応変に変えざるを得ない。例えば、脚注22に記載したように、グーグルやアマゾンなどの米国先進企業では、これまで全米の感染拡大の深刻化に合わせて米国でのオフィス再開時期を随時後ろ倒しに変更するとともに、社内外に速やかに明らかにしてきた。ここでは、経営者には、何よりも従業員の安全と事業の継続を最優先とし、環境変化に対応して柔軟かつ機動的に経営施策を変更するスタンスが求められる。特に現在のように依然として感染再拡大のリスクを強く警戒しなければならない局面では、メインオフィスを活用しつつも、引続き緊急避難的に在宅勤務や従業員の自宅に近いサテライトオフィスでのテレワークを中心に業務を行うことが望ましいだろう。この場合、メインオフィスの利用率は引続き極めて低いかもしれないが、この一時的に利用されないスペースは、オフィス内での感染予防(3つの密(密閉・密集・密接)の回避)に向けた執務エリアや会議室でのソーシャルディスタンシング(Social Distancing:社会的距離の確保)のためのスペースとして有効活用することができる、と捉えるべきではないだろうか。
従業員が、イノベーション創出の起点や企業文化の象徴として全社的な拠り所となるメインオフィスに安心して戻ってきて、最も創造的な環境で存分に業務を再開できるであろう、来るべきアフターコロナ時代に備えて、ウィズコロナ期では、経営者は貴重な経営資源であるメインオフィスをソーシャルディスタンシングに十分に配慮したスペースとして利用し続けることで、このウィズコロナ期という引き続く苦境を胆力を持って耐えしのぐことが求められるのではないだろうか。
オフィスの現状の利用率(在席率)が極めて低いからといって、メインオフィスなどの座席数さらにはスペースを大幅に削減するなど縮小均衡型の施策を拙速に講じて、一時的な移行期間であるウィズコロナ期の低いオフィス利用率に合わせたオフィススペースに固定化してしまうことは、組織スラックを備えないリーン型の意思決定に他ならずリスクが極めて高い、と筆者は考える。コロナ後に、日常を取り戻せるレベルまで感染リスクが大幅に低減し多くの従業員がオフィスワークを希望する日が増えてきたり(オフィス利用率の大幅な上昇)、事業拡大などによりオフィス増床が必要になっても、売却や賃貸借契約の解約をした後では取り返しがつかないからだ。本来はアマゾンやグーグルのように、ウィズコロナ期にコロナ後を見据えた確固たる骨太のオフィス戦略を打ち出し実行すべきだが、さもなければアフターコロナを迎えるまでは、固定資産(不動産)としてのオフィススペースに関わる意思決定をペンディングにしておくことが、次善の策となるのではないだろうか。不動産の投資や削減に関わる意思決定には、中長期の設備投資計画や賃貸借契約などが関わるため、当然のことながら、短期的な目先の視点ではなく中長期の視点が欠かせず慎重さが求められるからだ。
ただし、コロナ禍で資金繰りが大幅に悪化し直ちにキャッシュが捻出できなければ立ち行かなくなる企業については、勿論メインオフィスなどの不動産をすぐに手放さざるを得ないケースもあるだろう。また、必ずしも業績が悪化していない企業の中にも、在宅勤務を中心とする体制に早々と移行しオフィスを退去・縮小移転する動きが、従業員規模が数十人以下の小回りの利くスタートアップを中心に一部の企業で昨年前半に先行して見られた48。スタートアップの中には、原則出社はせず各自の好きな場所(在宅に限定しない)で働ける完全リモートワーク体制に移行したり、さらにはオフィスを完全解約する企業も一部で見られた。
48 小規模なスタートアップが縮小移転するケースでは、都市部などの中規模賃貸ビルが移転先の受け皿になっているとみられる。大企業では、在宅勤務などテレワークの活用を標準とした働き方を推進する方針をいち早く新たに打ち出した企業は、日立製作所(2020年5月発表)、富士通(2020年7月発表)など一部にある一方、オフィススペースを大幅に削減することにまで踏み込むことを公表する企業は今のところあまり見られないが、数少ない事例として、富士通は「オフィス環境面では、従業員がそれぞれの業務目的に最も適した場所から自由に選択できるようにするとともに、全席をフリーアドレス化することにより、2022年度末までにオフィスの規模を現状の50%程度に最適化する」(富士通PRESS RELEASE 2020年7月6日「ニューノーマルにおける新たな働き方「Work Life Shift」を推進」より引用)としている。
3|在宅と出社の厳格な切り分けは組織スラックを削ぎ落とすことになりかねない
コロナ禍を契機に在宅勤務を中心とする働き方にシフトしようとしている企業では、従業員の出社を抑止するために、他の従業員やチームとの打合せ・議論など対面のコミュニケーションがどうしても必要な場合に出社とし、一人でもできる作業などそれ以外の業務は在宅で行う、というように、在宅勤務とオフィスワークの役割・機能を厳格に切り分けようとしているケースが多いように見受けられる。
業務を厳格に切り分けて在宅勤務とオフィスワークを使い分けることは、一見効率的・合理的であるように見えるが、偶発性を含めた組織スラックの要素が削ぎ落とされて、かえってイノベーションの創出プロセスが分断されてしまうリスクがあるのではないだろうか。すなわち、メインオフィスの休憩・共用スペースなどでの異なる部門の従業員との偶発的な出会いやインフォーマルなコミュニケーション、すなわちフィジカル空間でのセレンディピティ(serendipity)49が一種の組織スラックでありイノベーションの源であるのに、予め決まった特定の従業員と直接顔を合わせる必要がある場合のみオフィスに出社し所定のミーティングが終われば帰宅するのであれば、オフィス内での偶発的な出会いのチャンスは著しく低減してしまうのではないか、と懸念される。在宅と出社を厳格に切り分けるやり方は、イノベーションが起こりにくいリーン型のオフィス運用に陥りかねないのだ。
明確な目的や時間の制約もなく偶発的な出会い・新たな気付きを求めて街をふらっと歩くように、オフィスを回遊したり休憩・共用スペースを利用する、良い意味での「曖昧さ」=「余裕部分(組織スラック)」を残しておかないと、イノベーションを創発する創造的な環境は醸成されないのではないだろうか。前述したように、オフィス全体を街や都市など一種のコミュニティと捉えることが「クリエイティブオフィスの基本モデル」の大原則だが、セレンディピティや多様な背景を持つ人々を引き寄せ「化学反応」を起こして画期的なイノベーションを生み出し続ける「創造的でイノベーティブな街・都市(スマートシティ50またはクリエイティブシティ(創造都市)と言い換えてもよい)」を縮図にしたものが、まさにクリエイティブオフィスの在るべき姿なのだ。
「企業は、オフィスワークと在宅勤務などのテレワークの最適なバランス(ベストミックス)を見つけるべき」との意見が多く一見もっともらしいが、筆者は、この比率を経営側が具体的数値でFIXしルール化することには断固反対だ。会社側が働き方の組合せをルール化して従業員に強いると、働き方の多様性・柔軟性が著しく阻害されかねず、「真の働き方改革」に逆行し本末転倒である。オフィスワークとテレワークのベストミックスは本来、従業員が個々の事情・ニーズ(仕事・家庭・健康)に合わせて日々自ら自由に選択する結果決まってくるべきものであり、予め予想することは不可能だ。既述の通り、企業は、ガイダンスや推奨値(例えば、週3日以上の出社を推奨)を示して緩やかに従業員の選択をコントロールすることが望ましいが、それでも「リーン型の厳格な運用」ではなく「組織スラック型の弾力的・柔軟な運用」を心掛けるべきだろう。さらに企業が決してやるべきでないのは、例えばテレワーク比率=50%をルール化し、それに合わせてオフィススペースまで半分に減床するリーン型の意思決定を下してしまうことだ。このような状況下で、コロナ後に多くの従業員がオフィスでの業務再開を希望した場合、3密状態となってしまい、従業員は詰め込まれたような手狭感・圧迫感・窮屈感を感じ、画期的なアイデアやイノベーションが生まれる開放的・創造的な居心地の良い環境には程遠いだろう。やはりオフィススペースには、組織スラックの要素が欠かせない。
49 株式会社アルク『英辞郎 on the WEB』によれば、「別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能」を指す。
50 先進的な街づくりやスマートシティ構築の在り方については、百嶋徹「サスティナブル・クリエイティブシティへの進化に向けたミクストユース開発の街づくり」日本ショッピングセンター協会『SC JAPAN TODAY』2019年1・2月合併号、同「企業不動産(CRE)の意味合い」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2019年3月4日、同「寄稿 ハンドブック発刊によせて/地域活性化に向けた不動産の利活用」国土交通省土地・建設産業局『企業による不動産の利活用ハンドブック』2019年5月24日、同「地域活性化に向けた不動産の利活用-国土交通省『企業による不動産の利活用ハンドブック』へ寄稿」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2019年7月11日、同「エコノミストリポート/カナダ、中国でスマートシティー グーグル系も街づくりに本格参入 データ連携基盤の構築がカギ」毎日新聞出版『週刊エコノミスト』2019年10月29日号、同「エコノミストリポート/スマートシティー 日本でも巨大プロジェクト進行 アフターコロナ対応も視野に」毎日新聞出版『週刊エコノミスト』2020年7月14日号、同「コロナと都市/DXの最終型はスマートシティで実現」(一社)不動産協会『FORE』2020年通巻118号(2020年11月)を参照されたい。
6 前編のまとめ
前編の本稿では、コロナ後の働き方とオフィス戦略に関わる「原理原則」となるべき2つのキーワード、すなわち「メインオフィス」と「働く環境の選択の自由」の2つの重要性を中心に、事例を交えて考察してきたが、ポイントをまとめると、以下のようになるだろう。
- コロナ禍の中で多くの企業で導入された在宅勤務は、BCP対策であって働き方改革とは次元が異なる。在宅勤務の生産性は自宅の環境要因によって従業員間で大きな格差が生じかねず、企業は在宅勤務を本格導入するなら、生産性格差是正のために従業員に環境整備の金銭的サポートを行うべきだ。ウィズコロナ期では、テレワークの場を従業員の居住地近隣のサテライトオフィスへ拡大することが望ましい。
- コロナ後の人間社会、さらには働き方・働く場の在り方を考える上で、山極京大前総長とメルケル独首相の考え方に学ぶべき点が多い。フィジカル空間での人間同士のつながり・信頼感の形成は、サイバー空間では代替できない。サイバー空間も上手に使いながら、コロナ禍で制限されていた実世界での創造的活動を取り戻すことこそが、コロナ後の在り方ではないか。人間社会の本来の在り方であるリアルな場で共鳴・協働することを放棄すべきではない。
- イノベーション創出の起点や経営理念・企業文化の象徴と位置付けられるメインオフィスの機能は、テレワークでは代替できず、主として大都市圏に立地する「メインオフィスの重要性」は今後も変わらない。逆にメインオフィスで醸成される従業員間の信頼感は、テレワークの円滑な運用に欠かせない(メインオフィスのテレワークに対する補完効果)。筆者が昨年いち早く打ち出した「コロナ前後でオフィスの重要性は何ら変わらない」との主張を裏付けるように、オフィス戦略の先進事例であるアマゾンとグーグルが、コロナ禍の中で、あえて米国内でのオフィス増床を続行するとの力強い表明を揃って行った。
- メインオフィスの重要性を熟知し実践してきた米国の先進的なハイテク企業では、コロナ後に従業員の安全性が確認されれば、速やかに躊躇なくメインオフィスでの業務を全面的に再開する、すなわちコロナ前の体制に積極的な意味で「戻す」だろう。一方、多くの日本企業では、残念ながら、これまでメインオフィスをイノベーション創出や企業文化体現の場として十分に活かし切れていなかった、と言わざるを得ない。多くの日本企業の在り方としては、導入・実践が遅れている大元のCRE(企業不動産)戦略をしっかりと取り入れた上で、それに基づく創造的なオフィス戦略を新たに構築することが急務だ。メインオフィスの役割・在り方は、筆者が提唱する「クリエイティブオフィスの基本モデル」で示した通り、再定義するまでもなく、コロナ前から既に明確になっている。日本企業が今やるべきことは、オフィスの再定義ではなく、米国の先進企業が実践してきたオフィス戦略の定石を一刻も早く取り入れることだ。
- 従業員にその時々のニーズに応じて「働く環境の選択の自由」を与えることは、働き方改革の本質であり、メインオフィスの重要性とともに原理原則として実践すべきだ。そのためにはメインオフィス内でも多様なスペースの設置が求められる。平時での在宅勤務は、経営側からの指示ではなく、従業員が多様な働き方の選択肢の1つとしていつでも自由に選択できるようにすべきだ。さらにワーケーションを含めたサテライトオフィスやコワーキングスペースなどの選択肢も取り入れることが望ましい。
- 働く環境の多様化とBCP対策の強化を進めるには、メインオフィスを中核に据えつつも、拠点配置の分散化・二重化が欠かせない。コロナ禍を契機に、日本企業は短期的な収益や効率性にとらわれがちだった視点を改め、中長期のイノベーション創出やサステナビリティ確保のために短期的には効率が低下しても、「リーン型」の経営ではなく「組織スラック」を備えた経営を実践しなければならない。多くの日本企業は、経営の短期志向と決別できるかが問われている。
- コロナ禍の下で在宅勤務比率の急上昇に伴いメインオフィスの利用率が大幅に低下した結果発生している未利用のスペースは、ソーシャルディスタンシングのための組織スラックと捉え、経営者はコロナ後を見据えて胆力を持って耐えしのぐことが望まれる。短期的なコスト削減のために安易にオフィススペースを削減したり手放したりするべきではない。
- 「オフィスワークとテレワークのベストミックスを見つけるべき」との考え方には留意が必要だ。両者を厳格に切り分けてしまうと、イノベーションの源となる異なる部門の従業員などとの偶発的な出会いやインフォーマルなコミュニケーションといったセレンディピティ=組織スラックの要素が削ぎ落とされかねない。良い意味での「曖昧さ」を残しておくべきだ。両者の最適なバランスは、本来従業員が個々のニーズに合わせて自由に選択する結果決まってくるべきものであって、経営側が具体数値をルール化して従業員に強いるものでは決してない。企業はガイダンスや推奨値を示して、組織スラック型の緩やかな運用を心掛けるべきだ。
後編の次稿では、前編の本稿での考察を受けて、筆者の主張に合致する数少ない日本企業の先進事例を紹介するとともに、全体のまとめを行いたい。
<参考文献>
(※弊社媒体の筆者の論考は、弊社ホームページの筆者ページ「百嶋 徹のレポート」を参照されたい)
・Amazon Press release: August18,2020“Amazon Announces Plans to Create 3,500 New Jobs in U.S. Tech Hubs in Dallas, Detroit, Denver, New York, Phoenix, and San Diego”
・Amazon Press release:July22,2019“Amazon Announces Plans to Expand in Ohio; Two New Amazon Robotics Fulfillment Centers Will Create More Than 2,500 Full-Time Jobs”
・株式会社アルク『英辞郎 on the WEB』
・一井純「居抜きに間借り、コロナで変わるオフィス賃貸─オフィスのあり方を再考する契機に」東洋経済新報社『東洋経済ONLINE』2020年5月12日
・同「ニュース最前線/居抜きの利用や間借りも始まるオフィスの再定義」東洋経済新報社『週刊東洋経済』2020年5月30日号
・同「第1特集 テレワーク総点検/通勤する価値はなくなるか?「オフィス不要論」の現実味」東洋経済新報社『週刊東洋経済』2020年6月6日号
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・ジョーンズ ラング ラサール「ヒューマン・エクスペリエンスがもたらすワークプレイス」(2017年6月22 日)
・ドイツ連邦共和国大使館・総領事館ホームページ「新型コロナウイルス感染症対策に関するメルケル首相のテレビ演説(2020年3月18日)」
・日本経済新聞電子版2019年2月15日「アマゾン、NY「第2本社」白紙に 地元の反対受け」
・日本経済新聞電子版2020年5月22日「Facebook 社員の半数、「コロナ後」も在宅勤務」
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・日本経済新聞2020年9月28日「オンライン授業の功罪 学び 他人と接触してこそ:京都大学長 山極寿一氏に聞く」
・日本経済新聞2020年12月14日夕刊「独、都市封鎖を強化」
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・日本経済新聞電子版2021年1月7日「米Amazonが低価格住宅 本社周辺など家賃高騰批判で」
・日本経済新聞電子版2021年3月19日「Googleが米で7600億円投資 21年、オフィスなどを拡張」
・BBCニュース2020年5月13日「ツイッター、在宅勤務を「永遠に」許可へ 新型ウイルス対策で効果実感」
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・富士通PRESS RELEASE 2020年7月6日「ニューノーマルにおける新たな働き方「Work Life Shift」を推進」
・ブルームバーグ2020年10月21日「アマゾン、在宅勤務が2021年6月末まで可能に─コロナ再流行の中」
・文藝春秋digital(2020年6月25日)「デジタル独裁 VS. 東洋的人間主義 コロナ後の世界を制するのは?|小林喜光×山極壽一」
以上
(執筆 百嶋 徹 (ひゃくしま とおる) 社会研究部 上席研究員)
2021-193G